《サンプル版》9.律

1/1
前へ
/10ページ
次へ

《サンプル版》9.律

日曜日の約束をぶっちぎってから、一週間、欧介さんには会わなかった。会わなかったというより、会えなかったというほうが正しい。 俺が学校から帰ってきても、庭に出ていることもなく、庭に面した窓に姿を見ることもなかった。メールのやりとりもなく、俺から隣に遊びに行くことも、もちろんしなかった。 最初のうちは気になって窓から様子を伺っていたが、日が経つにつれだんだん腹が立ってきた。 こんなにあからさまに避けられると、こっちも関係を修復するのに骨が折れる。気まずいったって、お互い別に悪いことをしたわけじゃない。 大人の恋愛事情がいろいろあることぐらい、俺にもわかる。 ナイーヴな問題だけに、むこうから何か言ってくれないと、俺はどうしたらいいかわからないじゃないか。 夜九時を過ぎてメールを一気に打ち込んだ。と、いっても一行。 (棚、出来た?) ホームセンター、楽しみにしてたのに。一緒に棚作るって言ったのに。 (材料は買ったよ) 五分くらいして、意外とあっさり返事が返ってきた。なんだよ、ひとりで買いに行ったのかよ。…そりゃぶっちぎったのは俺だけども。 (買っただけ?) (そう) (作らないの) (作りたいよ) 不毛なやりとりが続いて、イラッとする。寝っ転がっていたベッドから降りて、カーテンを勢いよく開けた。どうせいないと思って。 「あ…っ…」 庭に面した大きな窓から、俺の方を見上げる欧介さん。泣きそうな顔はしていない。どちらかと言えば俺よりも驚いた顔をしていた。きっとむこうもカーテンが開くと思っていなかったんだろう。 欧介さんがうつむいて携帯をいじる。すぐに電話が鳴った。 お互いの顔を見ながら、受話器に向かって話す。 「…もしもし」 『律…久しぶり』 「久しぶりって。一週間じゃん」 『そっか。そのくらいか。もっと長いかと思った』 「…欧介さん、暇だから長く感じんだろ」 『そうかもね。暇だったよ』 話すうちに、自然と冷たい空気が暖まっていくのを感じた。 『律』 「なに」 『佃煮、作り過ぎちゃってさ。困ってるんだ』 「…ビールに合うよね」 欧介さんが笑った。俺もつられて笑った。 『おいで』 「ん」 俺は冷蔵庫からビールを二本くすねて、櫻田家のインターホンを押した。 「いらっしゃい」 玄関に迎えに出てきた欧介さんは、俺の顔を見ると、ほっとしたような、それでいてばつの悪そうな顔をした。 俺は出来るだけ普通を装って、靴を脱いだ。 うまい佃煮をつまみにビールを飲んだ。 他愛もないことを話せるのが、すごく安心できた。テレビのお笑い芸人のネタを、笑いながら見ているのが楽しかった。 「律」 俺の方を見ないで、欧介さんは言った。 「うん」 俺も欧介さんの方を見ないで答えた。 「ごめん」 「…なんで謝るの」 「なんか…気持ち悪いもの、見せたかなって」 「…俺、そんなガキじゃないし」 「律…」 「大人にはいろいろあんだろ。わかるよそのくらい」 「…でも」 「好きとか嫌いとかさ、自由じゃん」 「俺は、ゲイなんだよ?」 「知ってる」 少し、間が空いた。テレビの中で芸人が爆笑してくれて、助かった。 俺はつとめて明るく言った。 「なんてゆーの?マイノリティ?そのぐらい俺も知ってるし。ってゆーか、そういうことじゃなくて」 俺は欧介さんの方を見た。 一週間会わないうちに、無精髭が伸びてる。それはそれで似合うけど、多分剃るの面倒だっただけなんだろうな。 「俺はただ…欧介さんとこうやって話したりするのが、楽しいだけ。いろいろ教えてもらったり、飯食ったりとかしたいだけなんだけど。そういうことに、そのいわゆるゲイとか、ノーマルとか関係するもんなのかなって…」 欧介さんはあの時と同じ、泣きそうな顔をした。 その顔は、やめて欲しい。俺が泣かしたみたいな気持ちになる。 「嫌じゃないの?…気持ち悪いとか」 「だったら遊びに来てないし。だって欧介さんは欧介さんでしょ」 「そっか…」 欧介さんはビールの缶をぐいっと空けた。俺が持ってきた分のほかに、もう二本空けている。いつもよりペースが早い。珍しく、顔も赤い。 「…ありがと……」 うつむいて、欧介さんがぼそっと呟いた。耳も真っ赤だった。 「…別に、フツーだし」 俺はこういうとき、そっけなく答えた方がいいことを知ってる。 父親を殴ったときに、泣いている母親にごめんねりっちゃん、と言われたことを思い出す。その時も、別に、って答えた。 本当は普通なんかじゃなくたって、そう言った方がうまくいくことがあるから。 欧介さんはその後、しこたま呑んだ。 ずっと、呂律の回らない口で、ごめん、と謝っていた。俺はそれに、適当に相槌を打ってた。 欧介さんがテーブルの上に酔いつぶれてしまうまで、あっという間だった。 「欧介さん、こんなとこで寝んなって…」 すう、すう、と寝息をたてる欧介さんは、少し幼く見えた。 眠り込んだ欧介さんをソファに寝かせるだけで精一杯だった。 自分より大きな男を動かしたのは初めてだ。 仰向けになった欧介さんの髪が揺れて、右耳にブラックダイヤのピアスが一つだけついているのが見えた。よく見たら、その他にもピアスホールがたくさん開いていた。今までそんなの気がつかなかった。 このひとの本当はどこにあるんだろう。 きっとまだ知らない部分がたくさんあるに違いない。 俺の頭の中に、抱かれる欧介さんの顔が浮かんだ。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

731人が本棚に入れています
本棚に追加