731人が本棚に入れています
本棚に追加
《サンプル版》9.律
日曜日の約束をぶっちぎってから、一週間、欧介さんには会わなかった。会わなかったというより、会えなかったというほうが正しい。
俺が学校から帰ってきても、庭に出ていることもなく、庭に面した窓に姿を見ることもなかった。メールのやりとりもなく、俺から隣に遊びに行くことも、もちろんしなかった。
最初のうちは気になって窓から様子を伺っていたが、日が経つにつれだんだん腹が立ってきた。
こんなにあからさまに避けられると、こっちも関係を修復するのに骨が折れる。気まずいったって、お互い別に悪いことをしたわけじゃない。
大人の恋愛事情がいろいろあることぐらい、俺にもわかる。
ナイーヴな問題だけに、むこうから何か言ってくれないと、俺はどうしたらいいかわからないじゃないか。
夜九時を過ぎてメールを一気に打ち込んだ。と、いっても一行。
(棚、出来た?)
ホームセンター、楽しみにしてたのに。一緒に棚作るって言ったのに。
(材料は買ったよ)
五分くらいして、意外とあっさり返事が返ってきた。なんだよ、ひとりで買いに行ったのかよ。…そりゃぶっちぎったのは俺だけども。
(買っただけ?)
(そう)
(作らないの)
(作りたいよ)
不毛なやりとりが続いて、イラッとする。寝っ転がっていたベッドから降りて、カーテンを勢いよく開けた。どうせいないと思って。
「あ…っ…」
庭に面した大きな窓から、俺の方を見上げる欧介さん。泣きそうな顔はしていない。どちらかと言えば俺よりも驚いた顔をしていた。きっとむこうもカーテンが開くと思っていなかったんだろう。
欧介さんがうつむいて携帯をいじる。すぐに電話が鳴った。
お互いの顔を見ながら、受話器に向かって話す。
「…もしもし」
『律…久しぶり』
「久しぶりって。一週間じゃん」
『そっか。そのくらいか。もっと長いかと思った』
「…欧介さん、暇だから長く感じんだろ」
『そうかもね。暇だったよ』
話すうちに、自然と冷たい空気が暖まっていくのを感じた。
『律』
「なに」
『佃煮、作り過ぎちゃってさ。困ってるんだ』
「…ビールに合うよね」
欧介さんが笑った。俺もつられて笑った。
『おいで』
「ん」
俺は冷蔵庫からビールを二本くすねて、櫻田家のインターホンを押した。
「いらっしゃい」
玄関に迎えに出てきた欧介さんは、俺の顔を見ると、ほっとしたような、それでいてばつの悪そうな顔をした。
俺は出来るだけ普通を装って、靴を脱いだ。
うまい佃煮をつまみにビールを飲んだ。
他愛もないことを話せるのが、すごく安心できた。テレビのお笑い芸人のネタを、笑いながら見ているのが楽しかった。
「律」
俺の方を見ないで、欧介さんは言った。
「うん」
俺も欧介さんの方を見ないで答えた。
「ごめん」
「…なんで謝るの」
「なんか…気持ち悪いもの、見せたかなって」
「…俺、そんなガキじゃないし」
「律…」
「大人にはいろいろあんだろ。わかるよそのくらい」
「…でも」
「好きとか嫌いとかさ、自由じゃん」
「俺は、ゲイなんだよ?」
「知ってる」
少し、間が空いた。テレビの中で芸人が爆笑してくれて、助かった。
俺はつとめて明るく言った。
「なんてゆーの?マイノリティ?そのぐらい俺も知ってるし。ってゆーか、そういうことじゃなくて」
俺は欧介さんの方を見た。
一週間会わないうちに、無精髭が伸びてる。それはそれで似合うけど、多分剃るの面倒だっただけなんだろうな。
「俺はただ…欧介さんとこうやって話したりするのが、楽しいだけ。いろいろ教えてもらったり、飯食ったりとかしたいだけなんだけど。そういうことに、そのいわゆるゲイとか、ノーマルとか関係するもんなのかなって…」
欧介さんはあの時と同じ、泣きそうな顔をした。
その顔は、やめて欲しい。俺が泣かしたみたいな気持ちになる。
「嫌じゃないの?…気持ち悪いとか」
「だったら遊びに来てないし。だって欧介さんは欧介さんでしょ」
「そっか…」
欧介さんはビールの缶をぐいっと空けた。俺が持ってきた分のほかに、もう二本空けている。いつもよりペースが早い。珍しく、顔も赤い。
「…ありがと……」
うつむいて、欧介さんがぼそっと呟いた。耳も真っ赤だった。
「…別に、フツーだし」
俺はこういうとき、そっけなく答えた方がいいことを知ってる。
父親を殴ったときに、泣いている母親にごめんねりっちゃん、と言われたことを思い出す。その時も、別に、って答えた。
本当は普通なんかじゃなくたって、そう言った方がうまくいくことがあるから。
欧介さんはその後、しこたま呑んだ。
ずっと、呂律の回らない口で、ごめん、と謝っていた。俺はそれに、適当に相槌を打ってた。
欧介さんがテーブルの上に酔いつぶれてしまうまで、あっという間だった。
「欧介さん、こんなとこで寝んなって…」
すう、すう、と寝息をたてる欧介さんは、少し幼く見えた。
眠り込んだ欧介さんをソファに寝かせるだけで精一杯だった。
自分より大きな男を動かしたのは初めてだ。
仰向けになった欧介さんの髪が揺れて、右耳にブラックダイヤのピアスが一つだけついているのが見えた。よく見たら、その他にもピアスホールがたくさん開いていた。今までそんなの気がつかなかった。
このひとの本当はどこにあるんだろう。
きっとまだ知らない部分がたくさんあるに違いない。
俺の頭の中に、抱かれる欧介さんの顔が浮かんだ。
最初のコメントを投稿しよう!