14人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
それから東京に戻ったアタシは、お菓子の缶に貯めていたお金をぜんぶ巾着に入れて、ほとんど身一つで九州まで逃げたわ。
着いた先で知り合った男の人と結婚して、三人の子供に恵まれて、そして孫も。ひ孫も生まれたの。
今日はその孫達が、アタシの傘寿のお祝いをしてくれるんですって。ご存じない? 傘寿。八十歳よ。数えでね。ほら、傘っていう字、八十って入っているでしょう?
ええ、アタシ幸せです。あんなことをしていたのに、こんなに幸せになって良かったのかしらと思うくらい。
ホントに幸せよ。
ホントよ。
でも、そうね。
こんな日にこうしてあの頃のことを思い返してしまうのは、きっと窓の外にあの夜のような雨が降っているせいね。
あの夜の、じっとりと体にまとわりつくような雨は、この五十年以上、アタシの中で止むことはなかった。あの頃の楽しくて幸せだった時間と、奥様への後ろめたさと、愛する人から逃げてしまった後悔が、あの夜の雨に溶けて降り続いていたわ。
彰治郎さんの噂はその後とんと入って来なかったけど、そうね、もう二十年くらい前かしら、テレビで訃報が流れるのを見たわ。喪主はあの頃の奥様だった。
そう、結局奥様と添い遂げられたの、って、ホッとした反面、ちょっと彰治郎さんを恨んじゃった。自分も結婚したくせに、言える立場じゃないわね。
最初のコメントを投稿しよう!