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3 別れの時間
今日も実行に移せなかった。
胸中の様々な思いがせめぎ合った結果だ。
前々から考えていたことだ。詩織はこのまま私と住んでいていいのかと。もしかしたら……いや、常識的に考えても親御さんが心配しているに違いない。本人は「理由を聞かずにしばらく住まわせて下さい」と言っていた。しかし、現実はそうはいかないはずだった。
こうして報告が遅れた私に非がある。詩織の親御さんたちは今頃、血眼になって探し回っているのかもしれないのだ。なのに私は、詩織との生活が楽しくてそれで……。
最低な人間だ。
なんの連絡も無しに、人様の娘を2週間以上も預かっている事実。鬼籍に入っている両親は、あの世でさぞ嘆いているだろう。
後悔と自分に対する軽蔑の念が、胸にとてつもなく重くのしかかっている。
カバンから部屋の鍵を取り出して開ける。ドアを引くのと同時に、普段の調子で帰宅を告げた。
「おかえり~、丁度お皿を並べたところなんだ。悪いけど、手伝って」
「わかった……って、おお」
小さいテーブルの上に所狭しと今朝リクエストした料理が、整然と並べられていた。
「いつもながら思うけど、詩織って非の打ち所がないよね。……体つき以外」
「あー、そんなこと言っていいのかなー。那帆ちゃんの大好きな鮭の塩焼きを、没収しちゃおうかな~」
「……ごめん、失言だった」
「素直でよろしい。素直で良い子な那帆ちゃんには、もう1匹鮭をプレゼントしまーす!」
「えっ? あ、ありがとう……」
「安かったから、たくさん買ったんだよ。さ、食べよ食べよ。あたし、おなかぺこぺこで背中がくっつきそう」
「そうね。食べようか」
「うんっ! いただきまーす」
「頂きます」
詩織の屈託のない笑顔を見ていると、実行に移さなくてもいいように思えてくる。本当は移さないと駄目なのは、胃に穴が空くほどわかっている。でも、やっぱり……。
* * *
部屋の照明の電源を落とす。枕元のスタンドライトの程よい柔らかな光が、部屋中に広がる。
「那帆ちゃん、早く~。ひとりは寂しいよぅ」
先にベッドに入ってる詩織が、甘えた声で私を呼んでいる。
「はいはい、今行くから」
ベッドに入り、スタンドライトを消す。すぐに部屋は暗闇に包まれた。
「今日も楽しい一日だったなぁ」
「どこかに行ってきたとか」
「うん、行ってきたよ。買い物ついでに公園に寄って奥さん達と話したり、子どもと遊んだり。本当に子どもって可愛いよねぇ。あたしのことしーちゃん、しーちゃんだって。独特の名付けセンスだよ。あの子たちは」
大学のほうは雨だったのに、こっちは少しでも晴れたのか。つくづく私は雨女なんだな。
「へえ。懐かれて良かったじゃない」
「そうだねぇ。あたしもお母さんになったら、あの子たちみたいな子どもが欲しいよ」
「詩織ならできるよ。あんたに負けないくらい元気な子がね」
「へへ、そうかなぁ~」
ここで会話が途切れる。暗闇でよく分からないが、寝息が聞こえてこないから、まだ眠りに落ちてないみたいだ。
何分、何十分経っただろう。
私は目が冴えて眠れない。天井を凝視し続けて暗闇に慣れてしまった。
やむ気配のない雨音だけが部屋に響いている。
不意に視線を詩織へとずらす。すると、偶然か必然か目線が合った。
夜目になっているから、顔が判然とまではいかないが、よく見える。
詩織の口辺がたちまち笑みで滲んでいく。
私も顔を向けて微笑み返す。
しばし、見つめ合う。
やがて詩織が、ゆっくりと口を開いた。
「那帆ちゃんは……幸せ?」
突拍子もない質問に戸惑う。
「……そりゃ、幸せだね。正直、詩織が来てから楽しいし」
「そっか~、ありがと。あたしもね那帆ちゃんと住んでて、楽しくて幸せだよ。このままずーっと一緒に居たいな~って」
嬉しさとそうはならない現実に、胸が締め付けられた。このままじゃ行けないと思う。思うのだが……。
「うん……私も」
と、詩織が私の胸に顔を埋めてきた。自然と鼓動が高鳴っていく。声が出ない。
「嬉しい! あたし、決めたよ。ねぇ、もしも、もしもだよ? あたしが突然居なくなっても、待っててくれる?」
何を決意したのかはわからないが、ある程度推察できた。心中にある不安を悟られまいと、詩織の頭を優しく撫でた。
「もちろん、待ってる。私は詩織を信じてる。何日、何ヶ月、何年経っても待ち続けるから」
「ありがと。これで安心して眠れるよ~」
「そう、お休みなさい」
「ちょっと待って!」
上体を巧に動かして枕に戻ってきた詩織。私たちは、再び穴の開くほど見つめ合う。
頬をほんのりと紅潮させて詩織は、遠慮がちにささやく。
「ねぇ、キス……」
昼間と違って妙に色っぽく見える詩織に、鼓動の波打つ速さはますます激しくなり、胸を突き破る勢いだ。私は緩やかにうなずいた。
瞬間、互いの唇が重なった。
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