1 雨の中の少女

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1 雨の中の少女

 ばたばたと騒がしい音とともに、厚い雨雲に支配された空から雨が降ってくる。  地面に叩きつけられて飛沫が舞い、辺りを白く染め上げていく。  その日私は、買い物からの帰宅途中だった。右手に傘で曲げている肘には小さいカバン、左手には買い物袋を提げている。  平素から比較的閑静な住宅街で、それにこの雨だ。人ひとりとして歩いている者は居ない。  雨粒が傘をせわしなく叩く。気のせいか雨足が更に強くなったらしい。遠雷も聞こえてきたし、できるだけ早く帰りたい。そう思い、歩みを早くする。靴も雨でだんだん濡れてきて、靴下にも浸透しかけてきているが、この際我慢するしかない。  まっすぐ前を見据えて歩いていた私の視界に、異様な物が入ってきた。ゴミ捨て場のネットの上に何かいる。腰を落ち着け、電信柱に横に寄りかかってる人か人形だ。  不気味だと思いながらも、人が人形かは解らない物体の目の前で立ち止まる。傍から見ても力の抜け切った体勢であり、完全に電信柱に体を預けていた。髪や服は雨で濡れそぼち、泥も至るところに点在している。前髪が長くて両目を覆い隠している為、どんな表情をしているかは窺い知れない。 「あの……」  普段から全く他人と話さないから、凄く小さい呼びかけになってしまった。 「あのっ」  再度口を大きく開けて、同じ言葉を喉奥から発した。  まったく微動だにしない。地面に突き刺さる雨音に、掻き消されているだけだろうか。近づきつつある遠雷が、己を存在を誇示するかのように、ゴロゴロと不気味に鳴っている。  私はしゃがみ込んで、左手に傘とカバンを移して右手を伸ばす。心の中で謝罪の言葉を繰り返しつつ、性別も人間かも分からぬ物体の胸に、掌を押し当てた。わずかな膨らみがある。  トクン……トクン……と、間隔はあるものの、間違いなく心臓の鼓動だ。安堵しつつも驚いた。左右に首を振るが、誰も居ない。とりあえず、右手を離して自分の胸に手を当てて、数度深呼吸してみる。  救急車を呼ばないと。  自分のポケットに手を突っ込む……無い。カバンの中を探る……無い。普段はあるべきはずの携帯電話が、今この時に限って携帯していなかったのだ。つくづく私は役立たずな人間だ。 「ごめんね……」  無意識について出た。無力で何もできない私を、この女性は赦してくれるだろうか。  ぐったりしている女性の見えぬ眼を、じっと見る。この女性が何を考えているのかはわからない。だけどなぜ、ここに居るのか? なぜ、命の炎が消えかかっているのか? これらの答えを解るはずないのだ。  携帯電話を持っていない私は何をすべきか、この女性をどうしたいのか、素早く考えを巡らせた。  ……思い当たった答えはひとつだった。 * * *  玄関のロックを何とか解除し、背負っていた女性を、ひとまず玄関マットの上に横たえさせた。  雨から女性を守るように差してきた為、私もすっかり濡れ鼠になってしまったが、仕方ない。  傘を畳んでドアに立てかけ、雨をたっぷり吸った靴を脱ぎ捨て、カバンと買い物袋を途中に置きつつ、脱衣所に向かった。  濡れた服を洗濯機に投入し、そのままパジャマに着替えたい衝動を耐える。バスタオルとタオルを数枚引っ張り出し、ついでにブラジャーとショーツも取り出し、見っともないが下着姿のまま玄関に戻った。  1ミリとも動いていない女性――と言うより、背負ってみて体が小さかったことから――もとい、女の子の服を脱がせながら、どこか外傷はないか目を皿にする。  ブラジャーもショーツも濡れていたので、少しサイズが大きいながらも無いよりはいい、と考え、バスタオルでよく拭いた上で身につけてあげた。無論、何度も謝罪しながら。その後はTシャツとジャージを着せた。  頬の泥はフェイスシートで拭き取ったが、髪の泥はそうはいかなかった。  髪のことは置いておくことにして、押入れから布団を持ち出し、敷いた。体が温まるように、湯たんぽも入れておいた。  女の子に掛け布団を掛けた時、不意に思いついた。少し苦しくなるかもしれないが、辞書で枕を高くして、美容院の洗髪のように洗えばいいことを。  早速、風呂場から洗面器にぬるま湯を張って、頭が来る辺りに設置した。次に女の子の上体を動かし、枕の上に頭を乗せた。前髪も洗いたいから、ヘアバンドで後ろに追いやった。  綺麗な顔だった。雪のように白い肌で、まつ毛も眼を縁取るように長い。動いている姿はさぞ可愛い子なんだろうなと思いながら、丁寧に髪に付いた泥を落とす  30分ほどかけてようやく、洗髪と髪を乾かし終えた。  その間、寒さに打ち震えている様子だった。唇の色が暗いし、顔色も悪い。よほど寒気がするのだろうか。  ……出典元が曖昧だが、こう言う時は人肌で暖めると良いと、見たことか聞いたことがある。  名も身も知らぬ他人に、この行為をすべきではないことは重々承知している。だが、寒そうにしている女の子を救いたい気持ちもある。  だから、私は意を決して布団に入った。ぬいぐるみならあったかもしれないが、人を抱いたのは初めてだった。  女の子の体は布団と湯たんぽのおかげで多少は温まってはいたが、まだ十分とは言えない。  ぎゅっと少し強め抱きしめる。余分な贅肉どころか、必要な所にあるべき肉が無いほど華奢だった。しばらく抱きしめていると、震えが徐々に収束していくのを感じれた。女の子から一定の間隔で寝息が静かに漏れてくる。  女の子の安らかな寝息を聞いて安心した私は、間もなくそのまま深い眠りに落ちた。 「……と言う経緯だ」 「ふーん。何だか良い話っぽいけど、よーく考えたら那帆(なほ)ちゃん、変態さんみたいだよねぇ」 「なっ」 「じょーだんだよ、冗談。も~、すぐ赤くなっちゃってぇ。可愛いんだから~」 「まったく、年上をからかうもんじゃないの」 「はいはい」  詩織(しおり)は生返事をしながら、私と自分の食器を持って立つ。 「私が洗うから、そのままでいいのに」 「いーの、いーの。那帆ちゃんはゆっくりしてなって。昨日もレポートで大変だったんでしょ?」 「ま、まあ……」 「でしょ~。そんな時は、何もやってないあたしがやるの」  どうやらそれなりの決意があるらしい。そこまで言うなら無下に断る訳にはいかない。それに、気遣ってくれて嬉しいし。 「分かった。お言葉に甘える。でも、前みたいに食器を割らないようにね」 「はーい!」  本人は手を上げようとしたのだろうけど、両手が食器で塞がっている。その為、大胆にも食器を高々と頭上に上げた。 「おっとっと……」  勢い良く上げたせいか、体勢が崩れてよろめく。  私は急いで立ち上がり、抱き止めようとする。 「はっ」  詩織が気合にも似た声を発したかと思うと、よろめきがなくなり、ぴたっと静止した。 「どう? 驚いた?」  いたずらっ子のような笑みを得意気に向けてくる。 「もうっ……」  胆を潰しかけた私は、それしか言えなかった。 「あはは、那帆ちゃんは本当に可愛いな~」  賛辞とも屈辱とも取れる台詞を残し、流し台へ向かった。
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