春を焦がれたひなたちは

長くて冷たい冬はほどけ、新しい春が芽生えた。

わたしは獣医学部にみごと合格した。

おとうさんとおかあさんは心から喜んでくれた。

友達もお祝いの言葉をたくさんくれた。心から嬉しいはずだった。

だけどわたしの心には、初めて経験する感情が渦巻いている。

「お世話になりました」

広く蘇った部屋に挨拶した。

来年にはべつのだれかがここに移り住み、泣いたり笑ったりするんだろうな。

がんばってね。

名前も知らないその人にエールを送り、退去しようとしたそのとき、ある人物と鉢合わせした。

心臓がぎゅっと締めつけられる。

「……未奈さん」

「なに」

その声は悲哀と苛立ちで支配されていた。

わたしは蛇に睨まれたカエルのように固まる。

伝えたいことがあったはずなのに。いざというときに勇気は役に立たない。

「あの、お世話になりました」

「うそつき」

未奈さんはぼそッと呟いた。

「わたしのこと、バカにしてんでしょ」

「そんなこと」

「はっきり言えばいいじゃない。ざまぁみろって」

未奈さんは入試本番で大失敗した。挽回すら難しい点数らしく、それ以降、だれも彼女に寄り付けなかった。

「ちがうんです。わたしは」
「純情ぶるのもいい加減にして。大貴だっていい迷惑よ。あなたに利用されて」

おもわず泣きそうになる。

わたしがあなたのことをずっと気にしていたのは、きらいだったからでも、憎んでいたからでもない。

ほんとうはあなたと、友達になりたかった。

受験なんてすべて忘れて、心から笑いあえる友達になりたかったんだ。

「あんたなんか、大っ嫌い」

未奈さんにぐいっと顔を持ちあげられる。

その目尻は濡れていた。グロスの塗られた唇が微かに震える。

「……おめでとう。２度とその顔を見せないでね」

　★

受験は残酷で、笑う人がいればかならず泣く人がいる。

どれだけキレイな言葉を並べても、それが揺るぎない真実で。

わたしは予備校のまえに立ち尽くしていた。

俯いて通り過ぎようかとも思った。

けれども気づいたら一歩踏み出していた。

どうしてもあの人に、伝えたいことがあったから。

だれもいない教室の一角に、その人は座っていた。

いつもの穏やかさで机に向かっている。なぜだろう、その背中に涙がこぼれた。

春という季節は、人を涙もろくさせる。

「お久しぶりです」

「やあ、どうしたの」

「挨拶に来たんです。地元に帰るまえに」

「そっか。寂しくなるね。ごめんな、不甲斐ない先生で」

わたしは首を横に振った。大さんは一次試験に落ちた。

３点。

そのわずかな距離が、遠かった。

「大さん、あのですね」

後悔だけはしたくないから。わたしはぎゅっと掌をにぎる。

わたし、あなたのことが––––

「ぼくさ、恵実ちゃんに教えられたことがあるんだ」

「え」

大さんに先を越されてうろたえる。

「なにをです」

「ぼくが受験でいつも競り負ける理由だよ。それは拘(こだわ)りだったんだ。ここの医学部じゃないといけない。そういう強い想いをぼくは持てていなかった。だけどいまのぼくにはそれができた。なぜだと思う」

大さんは楽しそうにシャーペンを回している。

そんなの、劣等生のわたしが、答えられるわけない。

落第生のわたしの耳に、大さんはいつものように優しくささやいてくれた。

「きみがいてくれるからさ。きみが帰る地元の医学部に、ぼくは後期出願したんだ」
　☆

我が家から大学まで続くゆるやかな坂道。

そこを登っていくとソメイヨシノが咲いている。

今年はかなり早い開花宣言だった。

歩道は桃色の絨毯で敷き詰められ、舞いおちる花びらは吹雪のよう。

わたしはあの人を思い描く。今頃、嵐吹き荒れる試験会場で戦っている頃だ。

わたしができるのは、ただ祈ることだけ。

手のひらにこぼれてきたあわい花びらを眺めながら、匂やかな陽射しのなか待ち続ける。

うぐいすがほーほけきょとのどかに鳴いた。

今年の桜は、とてもきれいだ。