祈りの秋

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祈りの秋

夏は線香花火のように燃え、やがて秋になった。 教室の空気がピリつきはじめる。 わたしは母にお気に入りのカーディガンを送ってもらった。 ここはわたしの住んでいた南方町(みなかたちょう)と違って、かなり冷える。 「大さん。次はこの問題を教えてください」 わたしは大さんに勉強をみてもらうようになった。 大さんは旧帝大の医学部を目指す二浪生で、ひとりでやる勉強に限界を感じていたところ、だれかに教えることで知識が定着することを知り、生徒役を募集しようとしていたらしい。 先生ではなくニックネームで呼ぶこと。それが唯一の入学条件だった。 「どれどれ」 「この図形問題、なんど解説を読みかえしても理解できなかったんです」 「ひとめ見たときに、補助線が引けそうに感じなかったかな」 わたしはおもわず顔をしかめた。 たしかに自分で言うとおり、大さんは感覚派だ。これだから地頭の良い人は困る。 「ええっとですねぇ」 「ああ、ごめん。いまのはなし。ちょっと待ってね」 わたしが困惑しているのが分かったのだろう、大さんはまっさらな印刷紙をファイルから取り出して丁寧に説明してくれた。 その手つきには一切の迷いがなくて惚れ惚れする。 「こんな解き方はどうだろう。図形問題をベクトルで解くってのは」 「ベクトル、ですか」 「うん。地道な計算を超えれば正解にかならずたどりつけるから、なかなか便利だよ」 天才的な閃きがないわたしにとってぴったりの解法だ。 どこかで役に立つかもしれないとエッセンスをノートにメモしていく。 そんなわたしの横を未奈さんが通り過ぎた。見知らぬ人たちと談笑しながらこちらに一瞥をくれる。 わたしはおもわず身体をちいさくする。 あの一件以来、わたしは未奈さんと一緒にいるのをやめた。 あんなふうにはなりたくないと反面教師にしている。 そんなよこしまな想いだって、いまじゃ原動力だった。 やがて閉校のベルが鳴り、わたしたちは帰ることにした。 集中すると時間はあっというまにすぎていく。 カレンダーがめくれるたびに近づいてくる受験の足音。 まだ聞きたくないような、はやく受け入れたいような中途半端な気持ち。 このところ胃がきりきりと痛むのは、きっと気のせいじゃない。 「元気ないね」 大さんが努めて明るい声で言う。 「恵実ちゃんの地元の話を聞くの、いつも楽しみにしているんだけどなぁ」 「……大さんはあの人たちのこと、どう思っているんですか」 「未奈たちのことかい。そうだね。大事な戦友だと思っているよ」 わたしはだんまりを決めこんだ。大さんはお人好しすぎる。 あのカラオケボックスにいたのも、数合わせでどうしてもと友達に頼まれて断れなかったからという。 大さんは他人のために身を滅ぼすタイプだ。 「相変わらずの博愛主義者ですね」 「もちろん、すべてを肯定しているわけじゃない。ぼくに良いところもあれば、悪いところもあるようにね」 八方美人な大さんは悲しそうに微笑んだ。 こういうわたしの態度が彼を困らせている。 わざわざ言葉にして敵対関係を作る必要なんてどこにもないんだから。 「ごめんなさい、こんな話をして」 わたしはもうこれっきりにしようと話題を変えた。 「先週話したとおり、今日からは面接の練習をしましょう。大さんは、なぜ医師を目指されるんですか」 大さんが夜空に向けて吐いた白い息は、やがてきらきら光る流れ星に変わった。 「その質問が、いちばん困るんだよね。ぼくの家、兄弟含めて全員が医者なんだ。だから医者にならないと居場所がないんだよ。まあ浪人している時点で、落ちこぼれ確定なんだけれどね」 現役生は天才、一浪性は秀才、二浪以上が普通の医学部のなかでも、旧帝大しか認めない。 そんなとんでも家系に生まれた大さんの両肩には、どれほどの重圧が掛かっているんだろう。 だれよりも遅くまで残って勉強している姿を知っているから、余計に心が締めつけられる。 「逆に恵実ちゃんは、どうして地元の獣医学部にこだわるの」 「わたし、地元も動物も愛しているんです」 うーたんが人参をもそもそ食べる姿が思い浮かんだ。 はやく地元に帰りたい。 根なし草の浪人生に吹く秋風は、あまりにもきびしい。 「近所の獣医さんがとても優しくて。大好きな地元で、大好きな動物たちの怪我を治してあげるのがちいさい頃からの夢なんです」 「……羨ましいなぁ」 「なにがです」 「その一途さだよ。ぼくたち多浪生は言い訳ばかり巧くなるからさ。足踏みが長くなると、やっぱり純粋ではいられなくなるのかな」 大さんの自転車の車輪がからからと音を立てた。 うわさで聞いたことがある。 多浪生は一浪するごとに志望校合格の可能性が著しくさがるという。 その厳しい現実をまえにすると純粋なままではいられないのかもしれない。 「こんなの、どうかな」 大さんは首筋に手をあてながら呟く。 「電気ストーブってあるよね。オレンジ色の線がまんなかに走るやつ。ぼくさ、幼稚園の頃にそれに無性に触ってみたくなったんだ。それで」 わたしが渋い顔をしているのが分かったのだろう、大さんは詳細な描写を避けた。 「気絶するほどに痛かったんだよ。だけど薬を飲むとましになって、やっぱり医者ってすごいなって再認識した。いまじゃ跡も残ってない」 「素敵な理由だと思いますよ」 「こんなんでいいんだ。ありきたりだと思ったんだけどなぁ」 大さんは恥ずかしそうに頬を掻いた。 わたしはその困った顔が可愛いくて、一緒に合格したいなと満点の星空に願った。
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