疫病神は空を噛む

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 莉々子が小学校に入る前の年、神田雄介(ゆうすけ)と妻の七緒(なお)は、娘の卒園祝いを買いに都心部へ買い出しに出ていた。明るいピンク色のランドセルと、苺がふんだんに使用されたケーキ。保育園で待つ娘の満面の笑みで喜ぶ顔を考えると、両親の頬も自然に緩む。両方とも車の後部座席で倒れないよう固定し、莉々子を迎えに急ぎ駐車場を出る。早く帰ろうと思い、短い区間であるが首都高に乗った。その選択をしなければ、莉々子は一人で積み木遊びをし続けることは無かっただろう。  高速道路に乗り込み、時速80kmで帰路を急ぐエスティマ。 「莉々子、びっくりするわよね」  七緒は後ろのランドセルを眺めながら控えめに微笑む。 「莉々子はピンクが好きだからな。赤じゃないランドセルにして正解だと思うよ」  雄介も、ランドセルを背負った娘を想像しながら、口角が自然に上がってしまう。ケーキなんてイベント事以外で買うことなど無いため、更なるサプライズとなるだろう。 「保育園に着いたら、どっちも後ろに隠そう。莉々子が後部座席に乗ってもばれないように」  それに同意が返ってこず、雄介は一瞬助手席を見る。七緒は後ろを向いたまま固まっていた。 「雄介さん。あれ、何」  運転中前から目を逸らすわけにもいかず、雄介はバックミラーに目を向けてみる。すると、後ろを走る黒のプラドが規定の車間距離の数倍以上近寄っているだけでなく、不自然に助手席の人間が窓から半身を出していた。直線道路に入り目を凝らしてみると、助手席の男は何かを手に持っている。 「何だろあれ。何か、本で見たことあるような気がするけど…何て言ったっけ」  七緒も背後を見続けているが、その名称が出てこない。その部分をアップして写真を撮り、夫にそれを見せてみる。すると雄介の顔が一気に険しくなった。 「ボウガンだぞ、それ」  平日の夕方、意外にも首都高を利用する者は多い。しかし何故かその車は神田夫妻を追尾するように離れない。恐怖を感じ、雄介は自身のエスティマのアクセルを強く踏む。スピード違反で警察に捕まればむしろ好都合である。そうでもしない限り、高速道路に逃げ場は無いのだ。良くも悪くも、現在は緩いカーブのみで殆ど直線に近い。あと数分もせず一般道に戻れるが、普段の数倍時間が経っているように思えてくる。 「大丈夫、大丈夫。あのカーブを曲がれば―――」  〈もう首都高を下りれる〉気を張っていたつもりだったが、人間そう集中力の持続が効く生き物ではない。カーブに入り僅かなる遠心力がかかったその瞬間だった。はち切れそうな風船が割られるような音が聞こえ、一瞬夢の中にいる感覚に陥る。身体が左に傾き、ハンドルが言う事を聞かない。 「雄介さん!」  妻の声で我に返る。その時視界はすでに本来の角度から九十度近くずれており、バックミラーには運転席と助手席で笑っている男の顔が映り込む。 「あい、つは」  雄介は咄嗟に七緒の頭を護るように抱き締め、意味をなさなくなったハンドルから手を離す。それが吉か凶か、夫妻の車は宙を走る首都高から投げ出された。遠心力と重力に従い、偶然にも車通りが少ない一般道の細道に頭からなだれ込む。幸いエンジンの爆発等は起こらず、情けなくタイヤが回り続けている状況で周囲の人間が通報をした。警察並びに救急車が現場に到達すると、車の中からは頭部からの多量出血と殆ど全身の複雑骨折で即死したと見られる神田雄介と神田七緒が発見された。 「莉々子ちゃん、どうしたの」  同時刻、住宅街に位置する保育園では、神田莉々子が大声で泣いていた。時間帯的に、まだ園内に残っているのは莉々子のみで、他クラスの担当をしている保育士もこぞって集まってきている。 「積み木のお城、壊れちゃったね」  年長になるまで、滅多なことが無い限り子供らしく泣くことなどなかった莉々子。誰よりも積み木やパズルが得意で、反対におままごと等の遊びが苦手な子供だった。そもそも重ねた積み木を崩すことからして珍しく、泣いている理由も話そうとしない莉々子に教師陣はお手上げである。 「パパとママがもうすぐお迎えに来るからね」  他の子供をあやすのと同様、単なる慰めで言ったその一言が、その後その保育士の心に暗闇をもたらすことになる。実際、その一時間後に莉々子を迎えに来たのは、警察二名を引き連れた祖父だった。  幼い莉々子に突き付けられた、両親の屍という姿をした現実。ようやく小学校に入ろうとしていた少女に実感が生まれるはずもなく、莉々子は躊躇なく両親の頬に触る。 「ととさ、かかさ」  普段から父のことを〈ととさん〉、母のことを〈かかさん〉と呼んでいた。その憧憬がどこか非現実的なものに見え、大人達の方が息を止めてしまう。年配の警察官が膝を付き、目線を合わせた莉々子に手渡したのは、傷の付いていない桃色のランドセルだった。 「これ、りりの?」  保育園を出てから一向に涙を見せない莉々子に胸を痛めながら、その警官も微笑み莉々子の頭を撫でる。 「あぁ、そうだ。お父さんとお母さんから預かったんだ、君に渡すようにってな」  待ち望んでいたランドセル。それを短い両手で抱き締めながらも、莉々子は嬉しそうな顔をしない。 「ととさ、かかさ、起きない。どうして起きないの」  子供ながらの素直な質問に、警官は言葉を詰まらせる。いつか知ってしまう現実なら、先に理解していても悪いことは無い。そう思う反面、今だけは夢の中の出来事と考えていてもいいのではないかと思ってしまう。無駄に大人まで生きてしまうと、変に頭が回り子供を傷つける答えしか用意できない。 「莉々子や」  一部始終を眺めていた祖父が、ランドセルごと莉々子を抱き上げる。 「父さんと母さんはな、莉々子のために寝てるんだ」  娘夫婦を失い悲しみに暮れても良いだろうに、彼は孫を護ろうと必死に笑う。 「りりのため?」 「そうだ。その証拠がそのランドセルだろ。父さんも母さんも、忙しい中でそれを買いに行ったから少し疲れたみたいだ。また一緒に話す日はいずれ来る。だからそれまで、じいちゃんと頑張って生きよう。めいっぱい勉強頑張って、二人をびっくりさせような」  その日以降、莉々子が泣くことは無かった。意味も分からず火葬が済み、〈宝探しだ〉と祖父に言われながら両親の骨を拾い、目が覚めた時には葬式が終わり、祖父との二人暮らしが始まったのだ。
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