疫病神は空を噛む

13/24
19人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ
それから三日、三浦と瀬田は絵が完成するまで苅谷聖子を待ち続けた。せめて彼女が満足のいく絵を完成させ、最後のコンクールに応募させたいというのは、夢とはとっくの昔に縁を切った大人のエゴだと言われるかもしれない。それでも三浦は、そうさせたことが間違いだとは思わなかった。両親殺害の罪に問われ、精神病棟に入院となった苅谷聖子は、その絵が目に留まった一人の画家からの直筆の手紙を見て、一晩中涙を流した。そこでようやく自身が犯した過ちが、たった一つの命では償いきれず、そして悔やみきれないものなのか理解したのだという。 「皮肉なもんだよな」  本庁から善意か故意か送られてきた封書を開き、三浦は空に翳してみる。それはA4用紙に縮小された賞状のコピーだった。 「うわ、すげえ。最優秀賞じゃないっすか」  苅谷聖子の絵が、最後のコンクールにて最高の評価を受けた。〈見たことのない絵だ〉〈美しさと賤しさが混在している〉〈まさに葛藤と呼ぶに相応しい〉もう一枚の紙には、彼女の絵に対する審査員の感想が箇条書きで連なっていた。 きっと苅谷聖子という人間は、生まれた時から才能の蕾が開きかかっていたのだ。だからこそ両親の死をも自身の感情とリンクさせ、絵としてこの世にたたき出すことができた。決してそれは許されることではない。その拭いきれない黒い点が花開くための最後の肥料だったと苅谷聖子が知れば、新たな葛藤に苛まれるだろう。それが次の〈葛藤〉を生まないことを切に願うことしか、廃れた大人にはできなかった。 苅谷聖子の件は、その後莉々子の元にも話が届いた。賞状と感想のコピーも三浦の善意で渡されたが、価値が理解できず現在シュレッダーにかけられている。 苅谷夫妻を殺害したのが娘の聖子であると考察できたその瞬間から、莉々子が彼女へ微量なりとも抱いていた情は一切消え去っていた。両親を殺し、更にはその罪を自分の夢のために利用するなど言語道断。反吐が出ると言いかけたところで三浦達が容疑者の元へ行ってくれて、実のところ安堵していた。 掛ける情けもないと思いながら莉々子が向かったのは、二階にある自室の向かいの部屋。そこは、彼女が普段から使用しているベッドが置かれた寝室である。その横の壁には小さめの壁掛けテレビがあり、それを囲むようにして何十枚何百枚と貼られている写真の数々。テレビが流しているのは昨今流行りのドラマではない。一昔前の画質で語られる、莉々子の幼少期の映像である。そしてその周囲の写真は、全て莉々子の成長過程を記録したもの。 自分が好きすぎるあまりそのようなことをしているのか。いや、そうではない。むしろ全くの逆である。神田莉々子は、神田莉々子という存在を心底憎んでいた。この世界において需要の無い、存在価値の無い神田莉々子が憎く、妬ましく、賤しく、気色悪く、この世に存在する万物の中で最も嫌いだった。 彼女が自身を疫病神と称する周囲に何も言い返さないのは、その表現が最も適切だと自負しているからだ。自分さえいなければ救えた命がどれほどあるだろう。自意識過剰だと言ってくれる人間が減っていくほど、それは現実となり過ぎた。そう、当初は莉々子自身が自分のことを疫病神と呼んでいたのだ。 「莉々ちゃん、莉々ちゃん。こっち向いてごらん」 「莉々子、撮るぞ。ほら笑え」  映像を垂れ流しにしている途中、耳障りな赤ん坊の声に混ざって、心が安らぐ二つの音が聞こえてくる。彼女の心が機能しなくなり、他人が死んだことに対し一片の悲壮も生まなくなった全ての原因である、両親の姿が視界に入ってくる。この声無しに眠れば悪夢に襲われるほど、彼女は両親を愛している。もう二度と家に帰ってくることのない両親を。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!