疫病神は空を噛む

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 昼下がり、強い日差しが照り付ける午後。首から胸元にかけてむさ苦しさを感じ、周囲に人がいないことをいいことにセーラー服のリボンを外す。右手にはシャープペンシル、左手は茫然と、目の前には白紙のプリントが一枚―――白紙と言っても元より打たれた文字を引いた状態を意味する―――。前回目線を上げた時よりたった二目盛りほどしか進んでいない長針。体感では既に倍以上の時間が経過しているというのに。  耳を刺してくるのは命を懸けて鳴き喚く蝉の声ばかりで、楽しそうな部活動の雄叫びなど微塵も聞こえない。たまにぼんやりと風に乗ってくる吹奏楽部の演奏に手を動かしてみるが、すぐに止まってしまう。無駄な労力を使うことをやめ、目の前の用紙にのしかかってみる。  半刻前教師に渡された〈反省文〉と書かれた紙。反省する覚えがないからこそ、一向に手が動かない。最も初めの位置に〈私は、〉と書いて以降、黒い芯が減っていない。書き終えたら職員室に持ってこいと言われ早一時間以上が経過し、さすがにしびれを切らした教師が廊下側の窓枠に寄りかかる。 「神田、起きろ。神田。神田莉々子(かみたりりこ)」  思考が停止していた女子生徒、神田莉々子は教師に顔を向けずゆっくりと上体を起こす。 「…寝てませんよ、まだ」  これから寝るつもりだったのかと揚げ足を取られるが、莉々子はぼんやりとしたまま反応を返さない。白紙状態の反省文を汚物でも持つようにして教師に見せつける。 「何を、反省しろって言うんですか。夏休み真っ只中に生徒を呼び出してまで、何の反省を」  彼女の担任教師である志士川勇吾(ししかわゆうご)は、一向に教室に足を踏み入れようとしない。言うことを聞かない生徒がいれば、歩み寄り正すのが教職の役目だが、ようやく目が合った莉々子から顔を背ける始末。まるでヒヨコが猫を見つけた時のようだ。 「先生、帰っていいですか」  埒が明かないことを察し、莉々子は鞄を机の上に上げる。反省文と、自分の物ではないシャープペンシルを机上に放置したまま。 「駄目だ。せめて反省の色を見せろ」  頑なにそればかりを主張する志士川に、莉々子の眉間に皺が寄る。この男はいつもこうだ。一つのテーマに固執して、狭くなった視野にはそれ以外の情報が全く入らない。典型的な教師とでも言ったところか。面倒そうに立ち上がる莉々子に肩をびくりと動かして、志士川は強く扉を叩く。流石の音に足を止めた莉々子は、長い黒髪を耳に掛けて見せる。その仕草には少なからず艶があったが、志士川は一度喉を鳴らすだけに留めた。 「同級生を殺しておいてその態度か!」  廊下の端まで響いた怒声。〈反省文〉の内容に、五月蠅かった蝉の声も静かになる。莉々子は、素直に鞄を肩から降ろした。 「だから、殺してないって何回も言ってるじゃないですか」  紙を渡される少し前、莉々子は同じ学年の女子生徒が死亡していた現場に居合わせており、警察での尋問を受けた後、学校に呼び出され現在に至っている。しかし警察に対しても、同じ質問ばかりを繰り返す学校の倫理委員会においても、彼女は〈自分ではない〉と主張し続けた。 「証拠があるんだろ。警察が逮捕に来るまでに、可能な限り後悔の念を見せておけ」  証拠と言っても、現場に警察が到着した際、その場に莉々子が立ち尽くしていたというだけである。確かに腕や顔に血は付着していたが、彼女が犯人だとするための物証となる物は現在のところ見つかっていない。被害者の傍に転がっていた包丁からは、被害者の血及び指紋以外は検出されなかった。 「そっか。先生がその線を越えてこっちに来ないのは、私が殺人犯だと勘違いしているからなんですね」  堂々と目上の人間に〈勘違い〉を指摘してくる莉々子に、志士川は誰にも聞こえない程度に舌打ちをする。その表情から彼の感じている憤りを察したのか、莉々子は志士川に最も近い椅子に腰かけた。 「先生、齋藤さんと付き合ってましたよね」  齋藤とは、今回の被害者である齋藤美千代(さいとうみちよ)を指す。普段から本の蟲と言っても過言ではない程文庫本を読んでおり、良くはない視力を度の強い眼鏡で補強していた。生徒会に所属しており性格は大人しく、若者がやる非行からは誰よりも離れているような模範生だ。  そんな優等生が周囲に隠していた恋人の存在。その相手が現在体温によるものとそうでない汗をかいている志士川だった。 「この間偶然本屋で齋藤さんに会って。その日は先生と出かけてた日だったんですって。別に私は見ていなかったのにわざわざ教えてくれて、ご丁寧に口封じのアイスももらいました」  誰かに自慢をしたいという感情も捨てきれなかったように思える。志士川は構内でも指折り数えられるほど整った顔立ちをしており、生徒は勿論教師からの支持も高かった。だからこそ齋藤美千代は皆に人気のある教師と秘密の恋愛をしていることが誇らしかったのだと考えられる。 「…卒業したら、一緒に住む約束をしてたくらいには本気だったよ」  志士川は事実の否定をしなかった。どちらかと言えば、初めにアプローチをかけていたのは志士川の方。生真面目な齋藤美千代は一度断ったものの、やはり女の本能というものには抗えず、結局は自ら志士川の元へと赴いた。 「でも周囲に秘密にしていたから、今も殺人犯にされている私の面倒を見て、彼女の顔を見には行かないんですね。お気の毒です」  現在被害者の遺体は警察が所有しており、傍には彼女の家族もいる。そんな場所で恋人の死を嘆こうものなら、倫理面を訴えられかねない。 「俺は、美千代の恋人である以前に、一人の大人で教師だ。自分で自分が嫌になるほど、理性が働く」  彼の行動に誤りは無いだろう。〈教師が生徒に背を出した〉と公に出されれば、自分と職場の面子に傷が付くだけでなく、二度と教育界に戻っては来れなくなる。その冷静な判断力を持っている点だけを見れば、彼は教育者の鏡と言えるやもしれない。 「そうですね、理性。理性、ですか」  莉々子が取り出した自身のスマートフォン。数多ある写真をいくつか遡り、〈齋藤さん〉と名を付けたフォルダを開く。その中には、SNSの一つである簡易連絡ツールにて行われた会話のスクリーンショットが複数枚保存されていた。莉々子はその内の一枚を志士川の顔に向ける。 「本当にそれは、〈理性〉ですか」
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