疫病神は空を噛む

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「どれだけ怖くて、どれだけ痛かったと思いますか」  見覚えのある顔の男達に車で距離を詰められただけでなく、目に見えた凶器に煽られながら死に怯え、全身に激痛を覚えてから命を落とした神田夫妻。当時大島と共に現場を訪れていた他の刑事が目にしたのは、本来人間がとれる体勢ではない格好で命を落としていた若夫婦と、それと同じ程元の原型をとどめていなかったケーキ。そこから受けた衝撃は並の物ではなかったという。 「事故で死んだ理由が自分への祝福だと知ってから、私は私を死ぬほど恨みました。でも死ねなかったのは、両親が残してくれたランドセルがあったから。唯一の支えだった祖父もいなくなり、いよいよ行こうかと思った時、偶然この携帯電話を見つけたおかげで、恨む対象ができました。片山さんは既に警察とお話をして、大島さんも拘束済です」  残されたのは、実際に両親を死に追いやった二名。十年もの間、罪を償おうとしなかった人間の中の屑である。 「さぞかし今、幸せな日々を送っているんでしょうね」  内田は研修医期間を終えてすぐ大学時代から付き合っていた女性と籍を入れ、現在3歳になろうとしている娘がいる。荒山も親のコネで正規の塾講師となり、つい昨年結婚したばかり。莉々子が失ったものを、彼らは全て手にしていた。 「本音を言えば、今すぐ殺したいくらいなんですよ」  莉々子がトップスの内側から取り出したのは、まだ一度も使用していない細身の包丁。座っていたパイプ椅子の布部分に刺し、切れ味を確かめる。 「二度と地を踏めないように両脚を砕いて、二度と陽の目を見れないように瞳を抉り取って、二度と大切な誰かを抱き締められないように両腕を切り落としてやりたい」  ゆっくりと確実に一歩ずつ前へ進み、彼らとの距離を縮めていく。ポーカーフェイスを気取っていた内田にも、流石に恐怖が襲い掛かってきたようだ。 「人間の肉とか、内臓とか、切り口とか、そこらに売り出されてる見ず知らずの牛や豚と同じようなものなんですよ。そうでなければカニバリズムなんて存在しない。意味、伝わりますかね」  両者の真ん中に立ち、莉々子は男達の顔を交互に覗き込む。しかし、どちらも顔を下に向けたまま上げようとはしない。そうしてしまえば、神田莉々子と目が合ってしまうためだ。 「お二人は今、ただの人間なんです。そこに殺人者という要素が付け加えられただけの人間。つまり、どこにでも転がってるような肉なわけで。肉はいつの時代もその形を保たず切り裂かれるのが常なんです」  そうして莉々子は包丁を高く上げる。身体が向いているのは内田で、視界にその動きが入った荒山は強く目を閉じる。 「ちゃんと、父と母が受けた痛みを知ってもらわないと」  内田の目の前を、凄まじい勢いで包丁が下りていく。それがスローモーションに見えたのは、自分の命の終わりを察したからなのか、それともそう思いたかっただけなのか、内田には分からなかった。少なくとも彼ができたのは、その終わりを見ずに済むことを願い、視界を無にすることだけである。
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