疫病神は空を噛む

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「神田!」  確実なる死を覚悟した瞬間、男の鼓膜に響いたのは第三者の声と、金属同士が触れ合うような高い音だった。目を開くと、ドア付近には息を切らせた警察官、目の前には、コンクリートの床に包丁を突き立てている莉々子が首をうなだれている。 「殺すなんて、しません」  膝を床につけた彼女がゆっくりと顔を上げる。その表情に、内田の顔がようやく歪んだ。 「そんなことしたら、私もただの人間になってしまうじゃないですか」  あまりに脆い人間をそのまま形として表したような、複数の感情がかき混ぜられた微笑みを浮かべる莉々子。憤怒、悲壮、嫉妬、賛美、皮肉、強欲、無欲。あらゆる色が重なれば、最後には黒しか残らなくなる。まさにそれを具現化したような莉々子を見下ろし、内田は両手で自身の顔を覆う。 「申し訳、ありませんでした」  謝罪が許す程度の罪以上のものを犯した内田と荒山は、莉々子を引き剥がした三浦の後に到着した大勢の警官らに取り押さえられ、最重要参考人という名目で連行し、その後逮捕に至った。  実際犯行には使用されなかったが没収された包丁を横目に、莉々子は情けなく笑う。その笑みに今までのような色味は無く、一人の人間、神田莉々子そのもののようだった。 「殺す気だったのか」  諭すような三浦の言葉に、莉々子は壁に寄りかかりながら首を横に振る。 「最初から、償ってもらうつもりでしたよ。名前と顔が世間に出れば、いくら親の力があっても元居た場所には戻ってこれませんし」  実際、包丁を振りかざした莉々子の手は震えていた。他人の死を目前にしても動じなかった心が、穢れに染まることを恐れるなど未だに信じがたい。よもや抱き続けてきた怨恨が、自分を完全なる復讐から遠ざけるとは思わなんだ。 「あそこでもし私がちゃんとあの二人を殺していたとしたら、言葉通りの復讐が執行されたことになっていました。でも〈復讐〉に囚われた結果がそれなのだとしたら、両親が殺された理由と同等のものになってしまいます」  あらゆる人間模様を見て自分が心底蔑んできた、本能のままに手を下す人間。残された命だからこそ、莉々子は自身がそうなってはならないと無意識にブレーキを掛けたのだ。 「人間らしいと卑下されるより、疫病神だと疎まれる方がずっといい」  そして莉々子は静かに、十年間我慢し続けた涙を溢れさせた。その横顔があまりに美しく、上を見上げる彼女に三浦も新藤もかける言葉を探してしまう。  父と母を失って初めて、莉々子は直接空を見上げた。手を伸ばせば届いてしまいそうなほど低い空に、両親も祖父も、自分を蔑視した親族もいる。きっとたった一枚の壁を越えた先で、こちらを見ているのだろう。であるならば尚更、私は生きなければならない。ただの石ころと同じような人間では駄目だ。疫病神という名が忘れられるような人格を形成するのだ。  事件と知るまでは生きる価値を見出せず、事件を知ってからは人生の意味が理解できなかった。今もまだ正解は見えていない。しかし、私が私であることはようやく知ることができた。命を軽んじるような人間ではないと、たった今証明できたではないか。それだけで、この復讐に意味があったと思える。  もしかすれば、今後も今までと変わらず、自分が関わった人間が悉く死んでいくかもしれない。それでも私はもう死は望まない。生の如何が分からずとも、ようやく一人で立ち、支え無くして前へ歩いて行けそうだ。 「私よ。私として気高くあれ」
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