プロローグ

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プロローグ

静寂。その一言が似つかわしい空間であった。 身体が浮遊している感覚から、徐々に意識へと紐づけされていくような微睡んだ空気を肌に感じ、不意に起きなければといった使命感を憶える。飛び起きたい意識と眠りたい肉体の狭間で、ふと疑問が浮かんでは消えていった。 ーいつの間に眠っていたのだろう… ー今日の夕食当番は俺だったか? ーそもそも今日は何曜日だったか? 急に不安になり、重く固まった瞼をそろりそろりと開けていく。 柔らかい明かりの照明が天井に見える。身に覚えのないその明かりを無心で眺めたが、どうにも現状が思い出せなかった。微かに首を横に動かすと、診察台のような椅子に横たわる自分に気付く。頭は依然ぼんやりと記憶の波を漂っているが、答えは浮かびそうにない。 思い通りに動かない鉛のような上半身を、時間をかけて揺り動かした。 肉体は未だ眠りを求めているのが理解出来た。恐らく数分の時間が、何時間にも感じた。這う芋虫のように身体を揺らし辺りを伺うと、周囲には同じような診察台が円を描き、横たわる人間の姿がいくつも目に入った。 その一人一人の様子を見て回っている人間がいた。白衣を着てカルテのようなものを書き込んでいる様は、集中しているのか忙しない。ぼんやりと停滞している眼球でその姿を見つめ続けた。 ー自分が目覚めた気配に気付いたらしい。 振り向いたその人物は女だった。 途端に呼吸器が壊れてしまったように苦しくなり、蕁麻疹が腕を覆った。 女はゆっくり近づいてくる。反して呼吸と動悸は早くなるばかりだった。 「やめろ…来るな、来るなよ…!」 「ここにいるのはあなたが恐れる女じゃない。あなたを助ける医者がいるだけ」 女の声は凛としていた。 遮る物が何もない白い空間に、一筆の線を走らせたようであった。 暴れる心臓を直接掌で撫でられたように、強引に脳に言葉が身に染みていった。 「医者…」 「そう、あなた達の担当の精神科医よ」 女は薄く笑う。 腕の蕁麻疹は治まらないが、呼吸は浅く出来るようになった。 また、他の眠っているらしい人間の傍に戻ったらしい。色々聞きたい事はあったが、何より呼吸を落ち着けることのほうが優先だったので、まだ説明する気がないらしい女を深追いする気は更々無かった。 ー吸って、吸って、吐いてー ー吸って、吐いて、吸って、吸ってー 胸を押さえ、噛み殺した息を少しずつ呑込む。 上半身を無理やり起こして右隣の診察台で横たわる人物を見ると、意識はあるらしく目を開いていた。視線が交わると舌打ちでもしそうな顔でそっぽを向く。明るい髪色の同世代くらいの男のようだ。同じように身体の自由が利かないらしく「こっち見んな」と力なく呟いていた。これ以上の観察は空気を悪くするだけだと感じ「すみません」と答えた後に反対隣を向くと、良く見知った顔が目に入る。 「青原…?!」 「んん…あー、おはよ…」 寝ぼけ眼で返事をする同居人の言葉に、思わず肩と緊張していた顔の筋肉から力が抜けた。「おお…身体が怠くて動かねぇ」妙にはしゃいだ様子の友人を尻目に、天音桃矢(あまねとうや)はどうやってこの場に来たのかを考えていた。 ここで目が覚めた理由は分からないが、精神科医がこの場にいる理由には思い当たることがあった。 先月初めに両親からもう生活の援助はしないとの通達があった。 中学時代からの親友である青原辰海(あおはらたつみ)とルームシェアをして経済的に支え合ってはいるものの、お互いに抱える精神疾患が仕事や日常生活に支障を来すことも多く、その出来事はこのままではまともに生きていけないと痛感する大きな出来事であった。
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