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side:天音 桃矢
…二年前、大学卒業後に入社した衣類メーカーを退職した。
小学生の頃から女性が近くに居る事への不安感があったことは気付いていたが、周囲からは思春期だと片づけられ、自分が精神的な疾患を患っているとは露とも感じていなかった。
年々触れられる事への不安が不快へと変わり、決定打となったのは高校一年の時であった。付き合った彼女とそういった空気になり、キスをしようとした瞬間、全身に蕁麻疹が溢れ過呼吸を起こしてしまった。…異性恐怖症であったこと、キスが原因だったことが伝わり彼女にはそのまま振られたが、華の女子高生に自分が怖くて発作を起こしたという事実は受け入れ難かったらしく『天音桃矢はゲイだ』と根も葉もない噂を立てられた。自分自身も彼女に悪いことをしたという気持ちがあったのであえて否定もせずにいたが、揶揄いもせず、引いた目でも見ないでまともな友人関係を続けてくれたのは、青原ぐらいのものであった。
その後大学卒業までは女嫌いのレッテルで何とか乗り切れたが、社会人になると症状と発症頻度は酷くなり、社の人間から受ける視線に耐え切れずに依願退職となった。退職の頃にはよく部署内で女性上司相手に過呼吸を起こし、自分を気持ち悪い生き物のように眺める女の視線を思い出すと今でも吐き気が止まらなくなる。
「桃矢、大丈夫かー?」
隣を見ると先程より覚醒したらしい青原が心配そうに声を掛けてきた。診察台から身を乗り出して、指先をグー、パーの形で繰り返して身体の自由を取り戻そうとしているようであった。相変わらず不健康そうな顔色をしているが、寝起きで多少元気な様子である。
他の診察台の人間も目が覚めてきたのか、軋む音とこの状況に戸惑うような声が漏れ聞こえてくる。
「青原、あの白衣の人が精神科医らしい。…ここに来るまでのこと覚えてるか?」
「ええと…桃矢の母ちゃんが生活費送るのやめるってなって、桃矢も俺も症状酷くなっていってるし、たまたまDM届いてた恐怖症患者の集団セラピーを受けようって…」
「俺もそこまでは憶えてる。確か…新宿の地下ビルに入って、ロビーで精神安定のハーブティーだとかを飲んで…その後は」
「眠くなったんだろ。全員寝ている間に運ばれたか」
遮るように答えたのは先程「見るな」と睨んできた男であった。もう調子は戻ったらしく、上半身を起こして髪をかき上げている。一見ホストのような色気のある風貌の男だった。それ以上会話する気はないらしく、辺りを伺うよう眺めている。
男が言ったことは概ねその通りだと思うが、なぜこんな拉致されたような状態で目が覚めたのか分からなかった。
「いち、にぃ…けっこういるね、このセラピー。俺達合わせて6人いる」
何の疑いもなく状況を受け入れている青原に閉口する。相変わらず猜疑心というものがない。
精神科医を名乗った人間は全員が起き上がれる状態になっているのを確認した後、その口を開いた。
「皆さん、とてもリラックスして頂けたようですね。実は眠っている間に催眠療法を少々試させてもらいました。気になる言葉が出てきた方もいらっしゃったので、これから隣室でそれぞれの症状と向き合って頂きます」
こちらへ、と先導された先には扉があり、柔らかい照明の今の部屋より眩しかった。壁も天井も白一色で、煌々と明かりが点いている。一点の曇りもない、そんな印象であった。少し怖いようなその内装に、何となく周囲の人間と顔を見合わせ、誰ともなく移動をし始めたのだった。
白い室内には白い椅子とテーブルが6脚あり、部屋の中心を囲むように並んでいる。中央には椅子だけが1脚あり、そこに精神科医の人間が座った。
テーブルにはそれぞれデスクトップパソコンとVRゴーグルが用意されており、「お好きな場所へどうぞ」と精神科医は言った。
想像していたカウンセリングと違ったのだろう。青原は楽し気に椅子に腰かけてしまったので、左隣のテーブルを選んで座る。簡素な事務テーブルに比べ、椅子はやたらと高級感があり座り心地が良かった。何時間でも座って居られそうだと感じた。
他のテーブルにもそれぞれ4人が座る。先程のホストのような男は自分の正面だった。その右隣にやたら前髪が長くオロオロした男が座り、左隣には感情の読めない、冷めた瞳をした男が座った。あと一人は、と自分の左隣を伺うと、眼鏡をかけた地味な男が座って居た。こちらの視線に気付いたのか、軽く会釈をされる。慌てて会釈して正面を向き直った。
この場にいる6人の男が皆、何かしらの恐怖症を抱えているー
全員がそう思っているようにお互いを値踏みしているように感じた。
そんな重い空気の中、精神科医は口火を切った。
「先程眠っている間に退行催眠を行いました。まずは、天音桃矢さん。あなたはトラウマの元になる体験を小学生の頃にしているようです。小学校三年生の頃の記憶になると口を噤みました。余程の恐怖だったようですが、何か思い当たる事はありますか?」
突然名指しされ、顔が強張った。
周囲の視線が自分に集まっているのが分かる。
「何でも結構です。自由に今までの恐怖症についての話を聞かせて下さい」
「俺は…9歳10歳頃の記憶があやふやな時期があります」
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