僕が闇に落ちてしまった時の話

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「あなたは、人の心がわからない」  彼女からの返信。 「そうかもしれない」  それから二人の会話はまったくかみ合うことなく、僕は僕で、少し言い過ぎたかと後悔はしたけれども、しかし、どうしても譲れないということもあった。  あの『夢の国』の袋には、そうした僕の心の闇がしまいこんである。不幸中の幸いでいえば、あの二人はまだまだ、付き合いを続けているらしいこと。でも、彼女のその後の行動は、僕にとって何一つ、面白いものではなかった。  初めて人を恨んだかもしれない。  嫉妬であれ妬みであれ、それはすでに経験のある感情であるし、人を憎いと思ったことも、ないわけではない。でも恨むというのは、僕にとって、少し違うものだ。  憎いは嫌いに等しく、最初から折り合わない感情だと理解している。しかし恨みとは、最初から憎いわけでもない。勝手にこちら側が期待をして、裏切られたときに生まれる感情なのだと、僕は理解している。  実際僕は、彼女のパーソナルを嫌ってはいない。その行いに対して憤りを感じている。 「いや、そうじゃないだろう。君はただ、前のように彼女と付き合いたいだけだよ。彼女がそれを許せば、君も彼女を許すのだろう。そしてまた、同じことを繰り返す」  インナーパーソンはいつも僕のやり方に口を出す。しかし、確かにそうなのだ。未練たらしく、前のように楽しく話をしたいという欲求があるからこそ、それが満たされないことで起きている心の揺らぎに躍らされているだけなのである。なぜ、そうしたいと思ってしまうのか、それは僕にも理解ができない。したいと思ってしまうことが、疎ましい。  それは誰かが代われることではない。恋愛感情でもなく、友情でもなく、ただただ、楽しかった、面白かったものをいきなり取り上げられてしまったことへの不満なのである。  ロボットのおもちゃの変わりに、車のおもちゃを渡されても、ダメなのだ。  しかし、今思うことは、また少し違ってきている。  この体験があったからこそ、僕が得たものは決して小さくないし、少なくもない。このことがあったからこそ、その後僕が体験した不愉快なことにも対処ができたし、もっと素敵な出会いもあった。  人生は文脈、ないほうがいい過去など存在しない。僕はこの経験を通じてでしか、次の経験を得られなかった。恨みが感謝に代わることはないが、恨んだことを忘れないでいることで、僕は恨みがどれだけ不毛で不愉快であることを知り、しかし恨むほどの感情があることで、そうならないようにしようという心構えもできてくる。  今回、このような醜態をさらしているのは、自戒と僕がずっと知りたいと思っている心のメカニズムを解き明かすサンプルとして、そろそろレポートをまとめたいと思ったからだ。  僕は彼女の幸せを願わない。  願わないことで、恨むこともなくなっていくと知った。  幸せになったらなったで、祝福をしよう。  もしまた、僕に何かを求めるのならそれも与えよう。  でも、そうなることを願わない。  それはつまり、欲をかかない ということなのだ。  闇から抜け出すには、無理に光を求めないこと、その光にこそ、闇は寄り集まってくるのだから。  台風が彼女の住む町を襲う。僕は彼女に直接メッセージを送ることがもう、できなくなっている。彼を通じて心配していることを伝えてもらう。それが届くかどうかは、この際どうでもいい。したいことをするだけだ。  彼女からは「家に着いたから大丈夫」だと連絡があったと聞く。しかし僕はその町がすでに停電になっていることを知っていた。  だから彼には「その大丈夫は、自分の身は大丈夫でも、家や町が大丈夫ってことではないだろう」と諭す。彼にはそういう心遣いはまるで期待できない。大丈夫といわれたら、それでおしまい。  強い風に吹かれて、あの家はかなり揺れているだろう。窓に打ち付ける雨風は人の不安を煽る。そんなとき、僕はいつも彼女を支えてきた。僕にはできて彼にはできないこと。いや、彼女が僕には望んで、彼には望まないこと。でも、もう彼女は僕には望まない。  だから彼女は心配をしてくれる誰かに、今頼っているに違いない。今の僕にはわかる。彼女はそうやって生きてきたのだと。彼はそういう人だとわかっていて付き合い、心配をしてくれる誰かには「怖い」とか「不安だ」と言って身を寄せるのだ。  かつて僕にそうしてきたように、今は他の誰かと。それは僕と出会う前の誰かなのかもしれないし、新しい出会いなのかもしれない。それはそれで彼女の闇なのかもしれない。  僕はその闇を知り、闇を覗き込み、闇に触れて、闇に堕ちた。  闇は誰にでも、どこにでもある。僕は僕自身の闇を知り、闇とともに生きているということを学んだ。認めるでもなく、受け入れるでもなく、ただそれはそこに存在し、決して消すことはできない。光があれば陰もある。そうわかっていても、簡単に受け入れられるものでもなく、受け入れていいものでもない。  強い光にはより強い影ができる。  心はいつも闇を抱えている。だからこそ、光を求めるのだ。それが生きているということなのかもしれない。無理に求めずとも、心は光の方向に自然と向かっていくものなのだから、闇に堕ちたときには、じっとしていることが賢明だということがわかれば、忘れたい過去があればこそ、明日に希望が持てるのだと信じることができるのではないだろうか。  あくまでも仮説でしかないのだけれども、今はそれでいいと思っている。
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