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生きていれば疲れることもある
生きていれば、疲れることもある。
疲れたのなら休めばいい。でも、休んでも休まらないこともあれば、休みたくても休めないこともある。
移動しながら休めない奴はゲリラにはなれない。
昔見たテレビのトーク番組で、「働く男とは?」みたいな話題になったときに、ベトナムだったか、中東だったか、或いはアフリカだったか忘れたが、作家がゲリラを取材したときのエピソードとしてそんな話があった。
ゲリラのような命の駆け引きを毎日やっているわけではないが、これは確かに真理だと、僕は思った。
生きながら休めなければ行き詰まる。
よく働き、よく遊び、よく眠れば、人生は充実する。
それはそうなのだ。しかし誰もがその機会を均等に与えられるわけでもなく、また、与えられたとしても、いつでもよく働けるか、よく遊べるか、よく眠れるかについては、ほとんどの場合、偏りがある。
つまりいいときもあれば、悪いときもあるのが普通なのだ。
だから人は蓄えるし、蓄えるために強欲になる。強欲になれば争うし、争って奪えば、憎しみが芽生える。
幸せになるために何かを犠牲にすることが正当化されるシステムは、こうした抜本的な問題点を起点としてこれまで繰り広げられ、そうした争いや憎しみを制御する手段として、人類は宗教やイデオロギーといった精神的、思想的解決、或いは差別や階層といった思考停止や排他主義による無関心を装うことで、地球上に繁栄をしてきたことになるのだが、さて、それは僕の問題ではない。
激しい疲れというのは、どうしようもなく思考を鈍らせ、精神的な高潔さを失わせていく。怠惰に、そして欲望に従順になる傾向が強くなる。生き物として、過度のストレスの状態にあるときは、それできっと正しいのだ。
動くから腹が減る。調子が悪いときは動かずに体力を温存し、気力を十分蓄えてから、確実に獲物を駆るなり、摂食すればいい。そのほうが効率がいいのである。それを意識的に行うのか、潜在意識に支配されるのかは問題ではない。最優先するべきは、疲労からの回復なのだ。
疲れ、苛立ち、葛藤、憤怒、執着、恐怖……どれも生きているうちにあまりとらわれたくない感情や状態であるけれども、生きている限り、それらと無縁ではいられない。
だからうまく付き合うしかないのだ。
四苦八苦あっての人生である。苦楽はともにあり、それらは他人と共有することができる。人が心を持つ生き物であるのは、相手の心を重い計ることができるほどに高度な知性を持ち、心をコントロールすることで、苦を楽に変えることができるためである。
心とは何かを変える力となる。だからこそ、心が折れないように、よく働き、よく遊び、よく眠る必要がある。
それでも……と思うことが僕にはある。
激しい疲れというのは、それくらいに機能を麻痺させるのだ。だからこそ、疲れないように、疲れきってしまわないように、備えなければならない。
それが長く生きていくためのコツ、ゲリラで言えば、移動しながら休めなければ、生き残れないという話なのである。
ふと、気がつく。
僕はこうして疲れている。それまでずっと気になっていたことに対する意識がすっかり断ち切れてしまっていた。気になっていたとは、つまり気に入らないとか、納得がいかないとか、そういった不満の類である。
疲れているときというのは、そうした自分にとって重要でないことに対してはどんどん視野から外れていくものなのだなと、改めて思った。僕にはそういう体験があまりないので、自分がそういう状況になって理解できたことがある。
どうしようもなく疲れているときというのは、その人の優先順位にしたがって、視野は狭くなるものなのだ。僕にはそれが……つまり、無視されることがとても我慢ならなくて、気持ちが暴れたことがある。
あれは、やっぱり僕が悪かったのか。相手を重い測る余裕は僕にはもう少しあったはずなのに、そうしなかった、或いはそうできなかった理由を正当化するばかりに、相手の状況を理解しようと言う気持ちに欠けていたのかもしれない。
いずれにしても、済んでしまったことだからしかたがない。それにやはり結論は同じなのだ。その人の疲れを癒すのは僕の仕事じゃないし、頼られたらいくらでも優しくできるが、そうでないときには、そうでない対応しかやりようがない。
生きていれば疲れることもある。
そんなときに、寄り添って癒しあうことができる人がそばにいてくれたのなら、回復も早いのだろう。
あなたには、そういう誰かがそばにいますか?
そういう誰かを大事にしていますか?
そういう誰かに気づいていますか?
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