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生きていれば別れは繰り返すのか
出会いと別れというのは、突然で必然で、或いは偶然で運命的で、言ってしまえばままならない。
予定や予測も不可能ではないけれども、僕はそこに苛立ちを感じる。
なんて傲慢なんだろうと思わなくもないけれども、しかし――認めたくないものは認めたくない。
「さよなら」の意味さえも、別れなのか離別なのか、終わりなのか。いきなり突きつけられたその言葉に、僕は抗うすべもなく、ただ泣き崩れたり、憤慨したり、或いは省みることも許せずに憎しみや自己嫌悪に陥って、うっかり自暴自棄になることもある。
ならないときは、ならないで、それも気持ちが悪い。
ああ、もうこれは駄目だなと思う瞬間に現れる「さよなら」という言葉は、まるで死神のようにすべてを刈り取っていく。何も残らない。ただ別れが残るだけなのだ。
そこにあったものがなくなる。当たり前のことが、そうでなくなる刹那があって、その先には永遠の闇なのか、或いは無なのか。
いずれにしてもむなしい。
ゆえに、別れは往々にしてむなしい。
一度訪れた別れを、僕は強引に引き寄せて、或いは執拗に待ち伏せて「またね」に差し替えるところまできたところで、やはりこの先にはまた「さよなら」があるいのだという覚悟を伴って、うっかりその季が少しでも遅くなるようにと願いながらも、だからといって、密度や質を下げてしまうことをどうしようもなく避けようとする。
なぜなら別れは、突然で必然で、或いは偶然で運命的で、言ってしまえばままならないからである。
高校生になったとき、僕は最初のままならないそれに翻弄された。苦しくて切なくて、それでも僕は傲慢だったので抗ったり、嘯いたり、そのときの僕なりにあらゆる抵抗を試みたのだけれども、すべては無駄だった。
別れというのは、さよならの意味するところは僕にとってそういうものなのかもしれないと知ったときだった。それでもそこには予感があったし、拙かった僕や彼女の限界がそこにはあったのだと思う。
それに比べて19のときの別れは、それこそ雷に打たれたような衝撃を伴って、二度と人を好きになったり、或いは無自覚に好意を寄せてしまうことの危うさに鈍感ななったりしないように戒めを与えるような体験だった。
ゆえに次の別れには充分の覚悟をもってすることができたからこそ、その次の新しい出会いを素直に喜び、受け入れ、それはどこまでも「さよなら」を遠ざけることのできる安全地帯――すなわち家庭を設けるにいたるのだけれども、ともにどちらかが死を迎えるまでは、言わずに済む、聞かずに済む存在へと変態させることができた。
しかし、それでも僕は繰り返すのだと知った。
なぜなら出会いもまた、突然で必然で、或いは偶然で運命的で、言ってしまえばままならない。
そしてそれらは必ず「さよなら」を伴っていることを僕は知っている。知っていてなお、受け入れてしまったのだから、僕はその顛末をしっかりと見守らなければならない――というのもまた、傲慢な僕の「さよなら」に対する嫌悪なのだろうか。
生きているということは、なにかとままならないのである。
出会いも、別れも、己の傲慢さも。
だから僕はまたしてもその傲慢さで、「さよなら」を否定する。
何度繰り返すことに、なったとしても。
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