生きていれば人と関わることに疲れることもある

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生きていれば人と関わることに疲れることもある

 うかつに人との関わりを持つと、疲弊してしまう自分が居る。なんて弱くて無力なんだという前に、なんで関わってしまったのだろうという後悔について考える。  たとえば道端で倒れている人を見つけて、僕はそこに駆け寄って「どうしましたか、大丈夫ですか」と問いかける。その人が起き上がれないで居れば、手を差し伸べるし、何かを伝えようとすれば耳を傾ける。  なにごともなく過ごす日常の中に、ふと違和感を覚えるようなことを目にすると、僕は好奇心からなのか、或いは恐怖心からなのか、そうした不可解なものを放ってはおけない。  これがホラー映画なら死亡フラグに違いないのだけれども、日常はそれほど劇的ではない。  劇的ではなくとも、事実は小説より奇なりとも言う。  僕がうかつだと思うことは、そうとは知らずに手を出してしまうことではなく、そうだと知っていて、手を出さずに、口を挟まずにいられない性分なのだ。  そら、みたことか!  案の定、だいたい疲れてしまう。そうしたことを放置できていた時期もあったのだけれども、もうどうにも止まらないというところは、むしろ病的なのかも知れず、或いは性癖に近いものなのかもしれない。  タロット占いなるものを始めたのも、実はそうした自分をある程度制御するためでもある。自分ですべて背負い込まずにいられるメンタリティや体力に自身があるときはいいが、タロットにその片棒を担いでもらうことで、いくらか負担が軽くなるというのは、やってみてわかったことである。  最初はただの愚痴を聞くだけのはずが、何かをきっかけに親身になりかけてブレーキをかけながらも、ハンドルはあらぬ方向へいざなわれていく。ぶつかるとわかっていてもそっちの方向に進んでいってしまうのだから、まったくもって不本意ながら、それでも本望なのである。  なぜなら僕は物書きなのである。作家でもなく、小説家でもなく、書きたいことを見つけては書く人なのであるから、労働に疲労はつき物なのである。  それでも言わせてもらうのなら、残業代くらいはどうにかしてほしいと思うことがある。人の悩み事、相談事に関わった後に、僕はそのことについてずいぶんと考え、すこぶる思いふけてしまう。  意見を聞きたいわけではない。ただ、話を聴いてほしい。  そう言う割には、聴いただけではすまないようなことばかりである。感情移入しなくとも、否、できないようなことでも、僕は僕で脳内でその人のキャラクターを作り上げ、どのようなときにどのように感じるかをシミュレートしてしまう。できてしまう。  いくらなんでもそれは考えすぎだよ。  でも、そうでないときは、考えが浅すぎるとか、それは違うとか言われてしまう。そういうことも含めて、聴いてほしいだけの話ではないのだろうから、やはり集中して考え、同じように疲れていく。  これからもずっと、僕はこうして人とうかつに関わって、疲れてしまうのだろうと思う。そういう悩みを聞き入れてくれる人がいるのなら、ぜひ、紹介してほしいものだ。  でも大体はそうならない。 「悩みを聞くよ」と近づいてくる人に限って、「実は私も」という接続詞のもとに、墓場までもって行かなければならないリストに載るようなことを平気で僕に聞かせるのだから。  生きている限り、僕は疲れていくのだろう。ただ、それも悪くはないのだと、思い始めているところが度し難くはあるのだけれども。
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