生きていれば執着してしまうこともある

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生きていれば執着してしまうこともある

 執着してしまう僕は、そうでない僕をうらやましいと思うのだろうか。  わからない。  執着はいけないことなのかと自分に問えば、執着するからこそ今の自分があるのだから僕は過去の自分を責める気にはなれない。執着しなければもっと楽に生きられて視野も広がり、道も開けるのかもしれない。 「私は執着しないわよ」と彼女は言う。まるで僕を責めるかのように。  彼女の生き方、彼女のこれまでを僕がどの程度知っているのかを計ることはできないが、それでも僕は彼女のことをわかっているつもりでいる。  僕はアンチテーゼを、彼女はあるべき姿をテーブルの上に載せてお茶を飲んだりワインを酌み交わしたり、時に彼女の台所で料理を振舞ったり、それなりの時間を過ごしてきたなりに、彼女の言葉は重い。  僕は意地になって執着してしまう自分を擁護する。僕が物語を書いたり、曲を作ったりできるのは、鍛錬やセンスや教育ではなく執着が出発点であることは明白なのだ。  こだわりがなければ何も生まれてこないのだという感覚はそうでない生き方に対してどうしようもなく無力なのだと思い知る。彼女には鍛錬もセンスも教育も環境もあって、執着はないのだと言い切る。  まるで太刀打ちができない圧倒的な重みの差に僕は萎縮し、固執し、そして意地悪な考えからアンチテーゼとも言えない反論をする。 「僕が僕であるのは執着があってこそ。その末に何もかも手放せるようになるかもしれない。だから手放すことは怖くはない。執着しなかったことで見過ごしてしまう何かの方が僕には怖いし、嫌なんだよ」  平行線であることは「あなたらしい」というとどめの一言で打ち切られる。  果たして僕はどうなのだろうか。  執着しているように見えて、まるで無節操に興味のあることに手を出しては適当なところで放置し、別のことに手を出す。そこで得られた何かをまた元に戻って再構築することで自分が本当に描きたかった何かを形にしていく。  そんなやり方しか僕にはできなかったのかもしれない。 「あなたはなんでそんなことができるの」と彼女は僕のやりようを責める。  僕の無節操さがどうにも我慢できないという彼女の顔を見ているとすべて僕が悪いのだと思い知らされる。  わかっているのだ。僕には誠実さや純粋さが足りていない。それを補ういろいろを持ち寄せていいように振舞っていることはよくわかっている。しかしこれが僕の生き残り方なのだ。  執着せずとも生きられる彼女と違う僕は執着する反面、無節操さによって折り合いをつけている。それを否定されても僕は彼女にはなれない。言い訳の多い生き方を、きっとこれからもしていく。  時にそんな自分を卑下して見せたり、居直ってみたり、それはどれほどあつかましいことかも知っている。あつかましくても僕は生きていくし、執着しつつ無節操であり続けるだろう。  互いをよく知る二人は、時に寄り添い、時に反発し、時に否定し、それでもそれぞれの生き方を続けていくのだろう。いや、そう思っているのは僕の彼女に対する執着であり、彼女はすっかり手放してしまっているのかもしれない。  それはそれでいい。  どうあがいたところで、僕は僕のままで生きて行き、そして死んでいくのだし、それを看取るのは彼女ではないのだから。 「私は友達だと思っている」という彼女に「友達っていうニュアンスとは少し違うんだ。どう言ったらいいかわからないけれど、何か違うんだよ」と答えた僕の中には、言葉にしなかった考えがあった。 「お互いに都合のいいところを利用している利害関係であって、そうでないときには気にも留めてないんじゃないかな。僕はあなたから学ぶことが多い。でも迷惑がられてまでそばには居たくないし、あなたが僕を必要としないとき、僕もあなたを必要としない。そんな関係だと思う」  ただ結局のところ、僕は彼女に執着をしている。今、必要とされていないのだから僕は無節操に必要としてくれる誰かと語り合う。また彼女に必要とされたときに答えられる準備をしながら生きていく。  いつか僕が手放せるようになるまで、きっとそうするのだろう。  僕の執着とはそういうことなのだ。  生きていればいつか手放さなければならないときが来る。だからそれまでは無節操に執着し続ける。それを迷惑だと思わない関係が僕にとって友達なのかも知れず、だから僕には友達がほとんどいない。  そんな友達はたくさんは要らないのだから、これでいいのだ。
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