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生きていれば過去を突き付けられる時がある
文章を書くようになって、それがブログであれ、エッセイであれ、小説であれ、書き終えたらすべて過去になる。今に連なるもの、一過性のもの、今でも覚えているもの、そして忘れされたもの。
50歳になったのを機に書き始めたエッセイは135回の投稿で終わっている。何もかも愉しくて仕方がなくて、それを虚実交えて問わず語りをしていたのだけれども、あれから随分と周りの状況は変わってしまったし、自分も変わったのだと思う。
積み重ねてきたもの、積み下ろしたもの、転げ落ちてしまったもの、いろいろあるが、その残り物で今の自分があるというわけでもない。壊れてしまったもの、壊してしまったもの、そういうものは記憶に残る者もあれば忘却の彼方に置き去りにしたものもある。
しかし書くということは必ずそれらの出来事、その片鱗が文字に残るものである。残っていることもすっかり忘れて、あるときそんなものに出くわしたのなら赤面するしかない。
思えばそれをずっと繰り返し、結果的には乗り越えて、アップデートして今の自分がある。人生とは恥の上塗りであるとは誰の言葉だったか。恥もかかずに、それも書かずにいたのだとしたら、僕という人間はすこぶるつまらない生き物であったのだろう。
今の自分は面白い。50も半ばを過ぎればそのくらいの自信が持てなければなんとつまらない人生であったことか。それが開き直りだろうが居直りだろうが、自分で自分を認められなければこの先愉しいことなど何も望めないではないか。
僕の周りはいつも騒がしい。何かがどこかで起きているし、30代の頃はそれを極力避けて家庭人であろうとしていた。それでも合間を見てオンラインで人と繋がれば、そこにはいろんなドラマが待ち受けていて打ち切ることのない連続ドラマ、『ツインピークス』か『24』かそれに追随するヒット作さながらに手を変え品を変え、平穏を許さない。
多くの失敗を繰り返し、見事最後はハッピーエンドとなるかどうかは約束はされていないが、僕としては目立たない端役でいるよりは、実はすべてのカギは彼が持っていたなどというありがた迷惑な役どころを任されても、なんとかこなす覚悟くらいはできている。
生きていれば、そのくらいのことは1度や2度はあるものである。
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