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十周年と女の涙と
勤めていた会社が倒産して10年の月日が過ぎた。それからの10年と言うのは今まで僕が過ごしてきたどんな10年よりも色濃いものだったと思う。その倒産した会社の社長や社員とは今でも交流がある。
社長とは飲み友達で、風の噂でどうやら今、仕事で行き詰っているような話を聞いたので、社長ともう1人、同じ会社だった『相方』と三人で飲む約束をしたのは、今週の火曜日だった。
相方との付き合いは、かれこれ10年になろうとしている。それはインターネットを使ったライブ配信番組で、前の会社の同僚と毎週日曜日の夜に3時間くらい、トークテーマを決めて、しゃべり倒す。
お題はスター・ウォーズやガンダムのようなコンテンツのときもあれば、悪役、スーパースターといったカテゴリーだったり、カレーライス、ラーメンといった食べ物、兵器、超常現象、終末論など、思いつきで何でもテーマにしてきた。
あわせてインディーズアーチストの楽曲や活動を紹介し、『めけソニック』というライブイベントも開催したこともある。このときは日本全国からアーチストを集め、そして日本全国からリスナーが駆けつけてくれた。初めてクラウドファンディングもやった。
この番組を企画したとき『3年は続けよう』と僕はいい、相方もやりましょうと始めたのだが、まさか10年も続くとはそのときは思っていなかった。6周年の時にはオフ会をやって盛り上がった。ほとんどが楽しくも下らない思い出だけれども、10年間いろんなものを調べて好き勝手にしゃべるというのは、知らず知らずのうちにある程度の雑学を身につけ、またさまざまな人間ドラマを垣間見たことで、人生の可能性や物事の考え方の多様性にも接することができた。
ところがその社長から急に都合が悪くなったと連絡が入った。来週にずらすこともできたが、それならそれで、僕にはどうしても相方と話しておきたかったことがある。
来年で十周年を迎えた時点で、配信を辞めるつもりでいた。
そろそろ辞め時だという話はぼちぼちしていたのだが、昨日改めて相方とその話をした。僕は家庭を持ち、子供たちもそろそろ手がかからなくなってきているので続けることはなんら支障はないが、相方はまだ独身でもあるし、そんな男の日曜の夜をずっと占有するわけにも行かない。
近所にあるモツ焼きの旨くて安い店で、モツ鍋やらモツ焼きをつつきながら、辞めるなら辞めるで、何かイベントをやろうという話になり、今後のことをいろいろと話したが、これと言って結論めいたものもないまま、相方が話したかった本題に話は移った。
相方とのこのような飲み会は、大概が相方の仕事の愚痴に終始する。
実際この日もそれなりに大きな会社でありがちなプロジェクトからの移動の話だったが、どうも相方は年下の女子とは相性が悪いという話なのだが、僕からすれば、それはそうだろうよと思い当たることが多々ある。
相方を含めて知り合いの何人かはSNSの投降を見ていれば、大体どんな気分でいるとか、今何に困っているのかがわかる。一緒のプロファイリングみたいなものだが、僕は相方に対して『無意識にリツイートしている記事にこそ、その人が今、気になっていることが出てしまっているものだ』と説明し、彼の過去のこういう書き込みは、男女差別の問題について何か引っかかることが彼自身の中にあった表れだとか、具体的に説明をし、納得を得られた。
またそもそものひととなりというものがあり、相方が後輩女子を苦手にしている以上に、後輩女子のほうが相方に対してストレスを感じているに違いなかったのである。
たとえば僕は人に道を尋ねられることが多い。他人から見た僕と言うのはおそらく話しかけやすく、たとえ知らなくても何とかしてくれそうな安心感がにじみ出てしまっているのだろう。
それはまったく否定しないが、僕にはそれが必ずしもうれしいことではないのだ。なぜならそれは、人間としてはそれでいいが男性としては警戒心なしに相談事をされてしまうというのは、すなわち男としての危険さに欠けているとも言える。
或いはどこに言ってで、誰と会っても、必ず可愛がられる性分の奴が身近にいる。僕にしろ、彼にしろ、相方とはおそらく全く立ち振る舞いが違うのだと思う。
しかしそんな相方でも年下の男子には好かれているようにみえる。僕はやはり年長者という雰囲気が出ている分、相手はしっかりと敬語で話しかけてくるが、相方には気さくな『ため口』に近い丁寧語で話しかけてくる。
いわゆる体育会系の男子の付き合いが、相方は得意と言うことになり、逆に年上の文科系の先輩男子には暑苦しく思われているふしがある。こうして人のありようを見ていると、それまでどのような人生を歩んできたのか、或いはこの先どうなるのかもある程度予測が立つものだ。
みなそれぞれ、生き方と言うもの、生きる型というものがあるのかもしれない。そして今回の相方に限らず、僕には人が困っているときにタイミングよく目の前に現れるという特性がどうやらあるらしい。
僕が相方に『飯でも行こう』と声をかけたその日がまさに、移動の辞令があった日という偶然もさることながら、僕はもう一軒寄らないかという誘いを相方が断ったということが、この後さらに僕が持っている困っている人の前に現れるという特殊能力が発揮されるのである。
店を出て、僕は1人でそのもう一軒に向かうことにしたのだが、相方も帰りる方向が大体同じなので店の前まで一緒に行くことになった。お互いに何か言い忘れたことはないかと、そんな手探り会話があったかのように思うが、いよいよ店の近くに来たときに僕は見覚えのある人影に目がとまった。
その人はこれから行く店の常連さんの奥様なのだが、こんな時間に1人で歩いていることなど考えられなかった。僕の大体一回り近く上のその夫婦とは、この店に限らず、よく一緒になることがあり、この夫婦の特殊な関係についてここで語ることはできないが、僕はどうにも奥様のことが気がかりでしかたがなく、彼女の涙を一度ならず何度か見ていることもあって、この状況がただ事ではないことをすぐに悟った。
近づいてみると案の定、彼女の目には涙が浮かんでいた。これはもう放っては置けないし、相方には申し訳ないが「ごめん、今日はここで解散と言うことで」と適当な挨拶をして、僕は店とは反対の方向――つまり駅に向かって彼女に寄り添い歩き始める。
どうしたのかという僕の問いに、大体の事情を説明してくれた。なんの行き違いがあったのか、どうしたのか、どう困っているのか。もちろんそんなことに首を突っ込みでもしたら、これ以上の大惨事になることもわかっている。
僕は断られることを承知で「このあとどこか行きませんか?」と彼女を誘い、「そんなことをしたら旦那に殺されちゃうわ」と彼女が首を振る。「じゃあ、駅まで送りましょう」と駅前のタクシー乗り場まで彼女を送り届けた。
ここ数年、女性の涙を見ることが多い。それぞれ何に涙を流しているかは別として、彼女たちは、僕の前では涙を流す。
彼女をタクシー乗り場まで送り届けた後、僕は彼女がさっきまでいたその店に行く。実は社長と一緒に飲みに行くと約束をしていた。夫婦で経営しているカラオケ居酒屋には、いつも1人でふらっと立ち寄り、常連さんと話したり、歌ったりして時間を過ごす。
ママはとても可愛らしい人だが、彼女も僕より年が少し上だ。そんな彼女は社長のことを常に気にかけてくれている。気にかけられるくらいの苦労やら人柄やら、社長には備わっているし、そんな社長を僕も放っては置けないでいる。
新型コロナウイルスの影響でこの店も大きな打撃を受けていたが、それ以前にもいろいろと苦しいときはあったのだけれども、そういうときに限って僕がふらっと店に訪れてくれて助けてくれるのだと彼女はい言う。
行かないときは何ヶ月も顔を出さない。でもここ最近は週に一度は顔を出している。大事な場所はそうやって守るしかないし、大好きな人たちと会えなくなるのは、本当に悲しいことだと思う。
少しお酒がまわったママは涙ながらに僕の手を握って「ありがとうね、いつも本当に助かってるのよ」と訴える。
そういうとき、僕はすごく納得をする。
何かに感謝しながら生きているといのは、とても尊いことなのだと。
僕はふと、考える。モツ焼きをつつきながら、相方にお願いしたことが、果たして叶うだろうかと。
それは僕が壊してしまったある人との関わりなのだけれども、果たして修復されるだろうか。もうどうしようもないほどに、お互いの気持ちがこじれてしまっているのは承知しているけれども、それでも僕は諦めない道を選ぼうと相方に願い出たのだが。
みんな生きている。生きているうちにしかこのような気持ちのやり取りはできないのだ。できることなら、これまで僕と関わったすべての人と、生きている間に、心を通わせたいと切に願う。
生きているからこそ、我を通し、ぶつかり、嫌い、嫌われることもある。でも生きているからこそ、もう一度それらを水に流して手を取り合って「ありがとう」と言えるような心の交流をするチャンスがあるはずなのだ。
わずか数時間の間に女性の涙を二度も見るという自分の今の星回りは、どうにも悪い予感しかしないのだけれども、今はこれでいいのだと思える。
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