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違和感の中で僕らは生きている
違和感の中で僕らは生きている。いや、僕は生きている。そしてあなたも生きているのだと思う。
もしかしたら僕の違和感とあなたの違和感は違うのかもしれない。
あなたは今日という日を、昨年と比べて、どう感じているのだろうか。或いは一月前と比べてどう感じているのだろうか。考えだしたらきりがないほどに違ってしまっている今日という日を、それがこの先一週間も続けば当たり前になってしまう毎日。
違和感が消費されていることに、僕はとてつもない、違和感を覚える。
今日、2020年6月30日を境に、世の中はまた変化しようとしている。6月から7月へ、レジ袋が有料化になる。キャッシュレス消費税還元は今日で終わり、明日からは消費税が完全に10%になる。
それらはすべてコロナが発生するよりも前に取り決められていたのだけれども、世の中ってもっと柔軟にことを運べない物かしらと思ってしまう。
だけど、そのときそう思っても、数週間も時が過ぎてしまえばすっかり忘れて、すっかりなじんで、慣らされてしまう。
習うより慣れろとはよく言ったものなのだけれども、僕はそうやって流されてしまうことに、違和感を覚え、そうでない人たちに違和感を持たずにはいられず、だからこうして、そのときに感じ、思い、考えたことを言葉に残す。
うっかりすると、それすらしない人たちにさえ、違和を感じてしまう。
馴染む、和むことができない、違うなと感じてしまう自分はどこかみんなと違ってしまっているのかもしれないと疑いつつも、僕はできるだけ違和感を忘れないようにしようと心がける。
いつかそれが、何かしらの結論に、或いは類推した思考の着地点を見つける地図を歩くメモになるのだと、僕は知っているから、もしこの文章が何年か先に誰かの目に留まった時に、ああ、あの時はそういう感じ方をしていた人もいたのだと知ってもらえれば、これに勝る意味はないとくらいに思えてしまう。
どんな悲劇も、どんな感動もいずれ風化してしまう。それをこうして熱を持っているうちに、或いは鬱屈して冷め冷めとした心持が伝わるものなら、僕はいくらでも執筆という行動や衝動にしがみつき、死ぬ間際まで書き綴りたいと思うのである。
良く見、良く聞き、良く考え、良く語らい合えば、より理解は深まり、一旦の結論を得られる。その経験の、その行為の積み重ねが、感を鋭くし、一瞬先の未来を予測しうるくらいにいくつかの選択肢からよりベターな選択を可能にできるのではないだろうか。
鼻が利くとは実によく言ったものだと思う。
千里眼とはなるほど、見えなくとも読み取るチカラなのだと思う。
ものごとのあるべき姿を想像し、それに釣り合わない現実の狭間にどんなベクトルが掛かっているのか、それを考察した上で、合わないパズルのピースのようなものが、違和感なのだ。
作られた嘘、隠された真実、曲げられた事実、無い物を見て、在るものを見ない。感情を殺すことで、どこか折り合いをつけている人間関係は、風が吹けば、張りぼてが揺らぎ、雨が降れば塗装が剥げる。
なぜ人は怒るのか、なぜ人は悲しむのか、なぜ人は喜ぶのか、そしてそれを分かち合うのか。楽しいだけではない『生きている』ということに対して多くの人が、『どうせ死ぬのなら好きにする』などという考えに至らないのはなぜなのだろうか。
あれほどあなたに会いたいと、焦がれていた思いがすっかり薄れてしまうのはなぜだろうか。あれほど言葉を交わし合った二人が、一言も話さなくなってしまったのはなぜだろうか。酒を飲みかわし、馬鹿をやっていた仲間が去って行ってしまったのはなぜだろうか。
それらはすべて、どこかで感じていた『違和感』を無視したからに違いないのだ。
否、違和感を無視できなかったからこそなのかもしれない。
だから僕はずっと問い続ける。
僕が見える、僕が読み解ける文脈の外側、例外的な事象について。
なぜなら僕らは違和感の中で生きているのだから。
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