音楽とともに生きること

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音楽とともに生きること

 僕は『めけラヂオ』というツイキャスというインターネットを使ったライブ配信番組を十年近くやっています。その番組のコンセプトはライブ配信の利点を生かしつつも、ノリはラヂオ……ラジオではなくradioのように音楽とおしゃべりと情報と笑いが流れる番組、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』やNHK-FMの『サウンドストリート』といった僕が多感な時期に聞いていた、こよなく愛していたラジオを自分でやってみたいという欲求の形が、『めけラヂオ』というわけです。  音楽との出会いは、今で言う『アニソン』と呼ばれるジャンル、特撮ヒーローやタツノコプロダクション、スーパーロボットからリアルロボットと呼ばれる『子供向けテレビアニメ』のオープニングやエンディングの曲に、ただの『アニソン』という接し方よりは、映画音楽の接し方に近かったように思います。  それは僕が育ってきた環境によるもので、両親は映画音楽が好きで、映画音が全集なるものが家にあり、僕はそれを好んで聞いていましたから、歌物もインストゥルメンタルも分け隔てなく聞いていましたから、ジャズやスイングや交響曲、ロックやポップス、フォークやロックンロール、耳に入るものを夕飯に出されたおかずを食べるように、体内に取り入れて消化していった結果、アニソンや特撮音楽の中に、それらの要素を感覚的に見出していたのでしょう。  日曜日、母が映画音楽やポール・モーリアのレコードを流しながら家事をする姿を見ていた僕にとって、音楽は普通に生活の中にある存在であり、誕生日のプレゼントに限らず、町に出かけたときにレコードショップに行って自分の好きなレコードをおねだりするのは、おもちゃをおねだりするよりも難易度が低かったことも含めて、レコードを聴くことを生活の一部と認識していたし、ラジオというのは、そんな音楽が次から次へと流れてくる魔法の箱のような存在でした。  さて、話はぐっと飛んで、現在の僕と音楽の関わりについては、受身で聴くよりも、積極的に聴くとき、聴く場所、聴く音楽を選び、前ほどに時間はかけていなくとも、たとえばどんなお酒にはどんな肴が合うのかを知っているように音楽を嗜みますし、一度口にすれば、その肴がなんの素材でどのような味付けをしているのかがわかるように、一度聴けば、ああ、この曲はこういうアーチストに影響されているんだとか、どんなルーツだなということをうっかりすれば、朝まで語る勢いで、音楽を楽しんでいます。  ここ10年はメジャーシーンにまるで関心がなく、もっぱらインディーズと呼ばれるメジャーレーベルと契約をしていないアーチストの音楽をライブハウスに足を運んだり、ライブ配信などを通じてある意味では幅広く、ある意味では絞り込んだ音楽の聴き方をしてきました。  幅広くとは銘柄に固執せず、地域に固執せず、ジャンルに固執せずという意味、絞り込んでとは、そのアーチストの演奏や音源を聴いたときに新しさを感じるもの、この新しさというのは僕の音楽体験に対する新しさであて、絶対値的な新しさではなく、どちらかといえば意外性というニュアンスになるのですが、僕の音楽に対する引き出しを増やしてくれる音楽体験をさせてくれるアーチストを探しています。  一方で原体験とも言える音楽――僕にとっては70年代後半から80年代前半の音楽をその日の気分によってyoutubeで試聴し、時にはアナログレコードをターンテーブルに載せてじっくり聴いています。  また、自身で楽器を演奏し、曲作りをするという意味においても、僕の音楽に対する聴き方は、そうでない方とは若干違いはあるのかもしれませんが、ステージ上のアーチストのパフォーマンスを堪能することにおいては、そのスキルがあることはより幅広く、深く音楽を楽しむことに役立っているのだと思います。  さて、コロナ禍の中で、今、音楽のありようはこれまで体験したことがないほどに切迫、逼迫、どういえばいいのかわかりませんが、今までの常識が通用しないような状況に追い込まれているといって過言ではないでしょう。  過日、十年近く応援してきているアーチストのホールコンサートがありました。毎年場所や時期や、演出を変え、ひとつの集大成ともなるべき今年のライブは、コロナという災害によって開催すら危うい状況でしたが、それがどうにか開催にこぎつけるということで、僕は静岡に足を運んだわけですがそこで見知った現実というのは、とても厳しいものがあり、それでもなお、挑み続けるアーチスト、そして彼らを応援するファンの熱意には感動とか、歓心とかよりも感服といったところでしょうか。  本来観客との距離を縮めるための花道は、ソーシャルディスタンスの基準を満たすために客席との距離を5メートル以上開けなければならない。設置は中央ではなく下手に寄せることで対応。そして開催日の1週間前に通達された「主催者側、演者、撮影スタッフなど、東京から呼んでは行けない」という無茶な要請でバイオリンとホルンが出演を断念。おそらくセットリストの変更やアレンジで修正し、ずっと依頼していた東京の撮影スタッフをキャンセルし、急遽地元の撮影スタッフをアテント。  いずれも今この時期では受け入れるしかないような条件の中で、本当に素晴らしいライブでした。  しかしその素晴らしさの中にも、観客が拍手でしか「ライブに参加」できずに、声援を送ることも、いわゆるコール&レスポンス的な楽曲もレスポンスは手を叩くことしかできないという状況はフラストレーションと、それでも力強く手を叩く観客の熱い思いが絡まりあい、もっと何かいい方法はないのだろうかと考えずにいられませんでした。  今世の中で行われているさまざまなコロナ禍での取り組みは、味方によっては患者は死んだとしても施術が基準の範囲であればしかたないと僕には思えてしまいます。この患者とは、病気にかかった人という意味ではなく、経済活動が止められてしまい、音楽にしろ、芸術にしろ、或いは飲食なども含めて、生業としていたことを続ける以上、赤字による出血死がこの先、目に見えているのに、ほかに手立てがない或いは、より大きな被害がでる可能性があるのであれば、リスクは極力さけなければならないと、わずかばかりの輸血をしつつ、その個体の持っている体力に任せているようにしか思えないのです。  いや、そこには必ずゴールがあって、人類がこれまで克服してきた疫病と同じように治療法なり薬なり、予防法などが確立されるまでの応急処置だとは、理解しているのです。理解が及んでも、どうもどこか納得ができないでいるのは、なぜなのだろうと自問してみるのですが、毎日見聞きする数字に対して、どこか不審を抱いていることがその一つであることは間違いないです。  会場で検温とアルコール消毒をしたあと、マスクをしながらようやく仲間と握手をすることができる。それですら、相手の様子を伺いつつということになる。それはもしかしたら自分は感染はしていないけれどもウイルスはそこにあり、この握手がきっかけでどちらかが感染者になってしまうかもしれないという不安をどこまでも拭い去れないからであって、つまりは検査によってそれを知ることができるのであれば、だいぶ不安は解消されるのでしょうが。  いずれにしても、こんな時期にライブをやること、観にいくこと事態が間違っているという意見の正当性は認められても、音楽が僕にとって生きることとともにある以上、少なくとも政治家のパーティーより遥かにその場に行く不要不急な理由を個人的には持ち合わせているわけで、感情論で言えば「くそくらえ!」となるのだけれども、そんなことよりもまずは現実を受け止めなければならない。  今回のライブは山作戰というアーチストが、これまで培ってきた彼なりの偏った存在が為しえてきた、他のアーチストとはどこか違う道のりを歩んできたこと、たとえば東日本大震災や彼の出身地、熊本の大地震や大雨、音楽よりも生活だろうという環境の中で、自分の存在意義のようなものに対してしっかりと向き合ってきたことの一つの表れだと僕は確信している。(ご本人にとっては、もしかしたら迷惑なことかもしれないが)  誰のライブであろうと観に行ったとうことではなく、彼のやること、彼を応援してくれる人が集まる場所だからこそ、どうしても僕は観に行きたかった。そこで得た答えは、「やらなければ支えを得られないし、支えなければやれない」という「どうしようもなく当たり前な答え」でしかかなったのだけれども。それは考えるよりもやはり、実際にこの目で確かめなければ、得られない結論だと思います。  音楽は僕の人生に少なくとも彩を与えてくれた。ときに音楽に鼓舞され、ときに音楽によって喜びや悲しみを誰かと共有し、ときに言葉よりも何か大切なもの、大事なものを伝えてくれた。音楽がどう生き延びるかについては、これからもずっと考えなければならない。  音楽とともに生きること。  それは僕の人生を自分の足で歩く上で、欠かすことのできない存在であり、できることなら、最高の状態で次の世代に残せるような生き方をしたい。その表れが、『めけラヂオ』という番組の存在意義でもある。  人が子孫を残すように、音楽の遺伝子が絶たれないようにどうすればいいのかをずっと考えながら生きていたい。
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