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老いることなく生きること
人は不老不死ではいられない。いつか必ず生を終え、死を迎える。そして一年ごとに歳を取り、それを老いと言うのであれば、老いることもまた避けることはできない。
しかし、若くして死を迎えれば、老いることなく生を終えたことになる。ジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョップリン、ドアーズのジム・モリソンといったフラワームーブメントのロックスターたち、グラムロックならT・レックスのマーク・ボラン、パンクならセックス・ピストルズのシド・ビシャスなどは若くして死を迎え、伝説となったといえる。
老いることなく死んだ者の華やかさ、華麗さに目を奪われがちだが、彼らが熟成し、老いと付き合いながら素晴らしい音楽を作ってくれたかもしれない未来を惜しむのであれば、その生活には破天荒さや危うさを感じずにはいられず、死の予感、或いは老いることへのささやかな抵抗を彼等は破滅的な形でやってのけたのかもしれない。
先月、めでたく53歳の誕生日を迎えた僕は、いよいよサザエさんの波平のひとつ下ということで、あれほどの貫禄はないまでも頭皮は薄くなり、社会的な立場で言えばご意見番見習いといったところであろうか。
若い人をみていると、ついつい口を出してしまう年頃にはとっくになっていたが、小うるさい上司というよりは、よくわきまえ、よく物を知り、よくもちいることのできるベテランとしての貫禄はさすがに出てきている。
過日、娘と同世代の女性と食事をする機会があり、彼女の遅い誕生日の祝いと、その前にお茶をしたときの『おせっかいな言葉』に対する最低限のお詫びという意味合いのほうが、僕にとっては強かった。
その『おせっかいな言葉』とは、こういう時期――コロナ禍といわれているこの現状でのリスク管理について、苦言を呈した形になってしまったのだが、僕としては『これがもし自分の娘だったら、言わずにはいられないだろう』という正義感なのか義務感なのか、或いはベテランとしてのアドバイスなのか、つまるところ老婆心という奴なのだが、仕事の選び方を含め、どうにも気になるので、どうか話を聞いて欲しいと、無理やりに時間を作ってコーヒーショップで出張先のお土産を渡すという姑息な手段まで使ってそれを実行したわけなのだが。
これにはもう少し説明がいるのだけれども、どうにも胸騒ぎ、いやな予感、虫の知らせのようなものが、彼女と知り合った数日後に頭をよぎったというか、ある意味論理的に考えればコロナ禍での職業リスクは明確であるのだから、それが不安の種の正体であると誤認識したとしても不思議はない。
或いは嫌な予感を裏付ける理由として最適だったからなのかもしれないが、老婆心だとわかっていても、言わずにはいられなかったのである。
彼女には彼女の立場、価値観、置かれている状況や願望があり、そんな話は『はい、わかりました』と口では言ってみたところで、果たして真剣に受け止めてくれるかは甚だ怪しく、であれば、それを言いたいだけの自己満足にしか過ぎないのだと指摘されれば、正直返す言葉もない。
『自分の手の届かないところのことは、考えても仕方がない』
そうはわかっていたとしても、言わずにいられなかった自分に対して、僕はもう少し謙虚に『なぜ、そこまで思うのだろうか』ということについて考えるべきだったのかもしれない。
その日――つまり彼女を喫茶店に呼び出した日はたまたま僕の誕生日であったのだが、そのたまたまを『そうではないんだ』と気づくくらいの視野の広さがあれば……、いや、たとえそれができた、つまり予測することができたとして、回避する方法があったかどうかについては、どうにも方法はなかったように思う。
どうにも気まずい雰囲気を残したまま、彼女を見送ったのだが、その数日後、彼女の身にちょっとした事件が起きた。それについて詳しく語ることはできないが、ある日付を超えなければ認められないことというのは世の中のルールとして存在し、それにまつわるトラブルが思いがけないところで起きてしまったこと。
そしてそれが原因で彼女が体調を崩してしまうまでにストレスを感じるような諸々の話をしながら、季節はずれの鍋料理をつつきながら、それも笑い話にようやくなったのだし、ある意味大事には至らなかったのだから、結果的には老婆心は的を射るところまではいかなくとも、的は捕らえていたというところが、この年齢になった人間の悪い予感は当たるという僕の持論を立証するひとつの出来事になったわけである。
老いるとはすなわち衰えることなのだと僕は思う。それは歳を重ねるごとに身体としては確実に起きる現象であることは確かなのだが、人間を自然物としてとらえるのではなく、存在として、或いは概念としてとらえた場合には、必ずしも肉体の衰えが人の衰え、すなわち老いであるとは言えない部分がある。
ロックの三大ギタリストといわれたエリック・クラプトンやジェフ・ベックのプレイは円熟味を増し、仮に技術的な衰えがあったとしてもそれを感じさせないプレイを続けているし、もうひとり、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジはどこか仙人じみた、或いは黒魔術の魔法使いのような雰囲気をかもし出している。
それは老いではなく、熟成、円熟、熟練という言葉で、その持ち味を称えられる存在として多くの人に認識をされている。
僕のような凡庸なものであっても、それは例外ではなく、老眼で細かい字は読めなくとも、読み取る力は若者が何かをスポンジのように吸収するのとはまた違い、よく取り入れ、よく持ちいり、よく選ぶということが効率的にできるようになるものなのだ。
『老いてなお気骨あるものは賞すべきかな』とは白衣の天使=ナイチンゲールの言葉だそうですが、僕が好きなカフカもこんな言葉を残しているそうです。
『青春が幸福なのは美しいものを見る能力を備えているためです。
美しいものを見る能力を保っていれば人は決して老いぬものです。』
さて、彼女の話に戻りましょう。
彼女は若者らしく、気持ちよく鍋を平らげ、一緒に注文をした桜ユッケを最高の笑顔で『おいしい、私、ユッケ大好きです』と言って食べていたが、ふと僕は思ったのです。
「ねぇ、もしかして君は、牛肉のユッケって食べたことないんじゃない?」
彼女は一旦、否定的な表情を浮かべましたが、「ああ、たしかに……」と記憶をたどり、もし食べたとしても子供の頃だから覚えていないと言いました。
牛肉のユッケが食中毒事件を機に、法律で禁止されるようになったのは2012年のことです。僕はそれを聞いて、一瞬、こんな言葉を言いかけました。
「それはもったいないことをした。ユッケはやはり牛でなければ」
僕が思うに、そういう発言を迷いなく発してしまうのは『老いの始まり』なのかもしれない。僕が老婆心で忠告めいたことを言ったのは、おそらく経験からくるリスク回避の提案なのだけれども、過ぎてしまったこと、もうなくなってしまったものを自慢げに話すというのは、提案ではなく忘却への恐れのあらわれ、抗いでしかない。
どんなにジミー・ヘンドリックがすごかった、どんなにシド・ビシャスがぶっ飛んでいたかを語ったところで、レコードや当時の資料を読み漁って得られる情報しかない。
「君はギターをやるのかい? じゃぁジミヘンとか知ってるよね?」といった会話は、その昔嫌と言うほど聞かされたし、ビートルズとストーンズのどちら派なのか、ポールとジョン、どっち派なのかという議論には正直辟易してしまっていた。
古い価値観をひけらかせたところで、若者には御伽噺となんら変わりはない。しっかりとした歴史観の中で、その後継者たるミュージシャンの系譜をなぞりつつも、興味があったらそこまで聞いてみると面白いよと提案するのであれば、それは『無害な老婆心』であり、今食べている桜ユッケもいずれ食べられなくなるかもしれないという可能性を危惧するのであれば、『だから今の内にできるだけ上手い桜ユッケを食べなさい……ウマだけに』とユーモアを交えて話をすれば、どんなにギャグがすべったとしても、嫌われることはないだろう。
老いることなく生きることは難しい。だけれども、どうせ生きているのならば、老いを恐れることなく、または孤独を恐れることなく、楽しく死を傍らに生きようじゃないか。
さて、そのあと彼女とは楽しい時間を過ごしながら、僕はそのなんでもない会話の中に、今と言う時代の断片を垣間見ることができたことにとても感謝をしているのだが、それとてたまたま運がよかったという話ではないのだ。
長く生きてきたからこそ働く『嫌な予感』もあれば、『何かいいことがあるかもしれない』という『なんか、いいかも』という予感もあるのだ。僕はその予感に従い、行動した結果、彼女との出会いを引き寄せた。
彼女にとっては、親よりも歳がいったちょっと物知りのおじさんにご飯をご馳走してもらうのだから、少しくらい愛想をよくしていたらいいかくらいの付き合いなのかもしれないけれど、僕にとっては、この世界の扉の向こう側を覗くことができる鍵穴のような存在、或いは時の砂の眩いひとかけらだと感じられるほどに、僕は関心を持っている。
そう、つまり、老いずに生きるということは、好奇心を満たす術と選択肢を多く持つことが、重要なのでは、ないだろうか。
彼女と別れた後、僕はリセットをするためにいきつけのバーに立ち寄り、一杯だけお酒をいただく。それはコーヒー豆を漬け込んだ焼酎で、この店の名物のようなものなのだけれども、どうしたことか、その味はどこか物足りなさを感じた。
たとえば消費が激しく、漬け込みが足りず熟成しないと若く、深みのないお酒になってしまう。或いは僕の気が少し若くなりすぎて、味が違って思えたのかもしれないが、さて、実際のところはどうだったのだろうか。
気を若く持つ、気が若くなる、なった気でいる。
若さに憧れがないとは言わないが、53歳の僕は、未だに好奇心が尽きることなく生きている。
それがなくなってしまったときが、老いたときであり、傍らに置いてあった死が、鎌首を上げるのかもしれない。
死神だけに……お後がよろしいようで。
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