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アパートの階段の前で、その人は腕を組み背を塀に預けて佇んでいた。
「……航生」
その名前を口にしてから、しまった、とばかりに蓮の手を振り解こうとしたが、蓮がそうさせなかった。
「風吹、待ってたよ。あれ、その子は……?」
当然、隣の蓮に目がいく。そして、『その子』と聞くあたり、航生も女の子に見間違えているようだった。
「ああ……押しかけ怪我人」
「は?」
その言葉に航生が思わず眉を寄せる。
「遠藤、誰?」
その間に立たされた蓮が風吹を見上げた。
「え、男……? 風吹……その、手、は?」
声でようやく蓮の性別を判断した航生は、二人の繋がれた手を見てあからさまに動揺する。
「落ち着けよ、航生」
とりあえず、そんなことしか風吹には言えない。けれど、蓮は違った。
「さっき、俺足くじいたみたいで」
蓮は臆することなく言ってのける。
その間、風吹は真っ白になって、変態のレッテルが作られる様子を想像しては青くなっていた。
「え、見せて」
航生がしゃがみ込む。
――終わりだ。彼女と別れて、親友も失って、俺はきっと変態のレッテル全身に貼って生きてくしかないんだ……
風吹がそんなことを考えていると、航生は、あ、と小さく叫んだ。
「結構ひどいじゃないか。病院行った方がいいよ」
「え、ホントに?」
「……なんで風吹が驚くんだよ」
「あ、いや。そ、それより航生。こんな時間になんだ?」
慌てて風吹は話題を変えるべく、航生に言う。
「さっき、紅音ちゃんと、会った」
「ああ、俺も会ったよ」
航生の言葉に、用件のほとんどが飲み込めた。
「なら……話は早いな」
「ああ。蓮、お前部屋帰ってろよ。少し出てくるから」
風吹は蓮にビールの入った袋と鍵を渡す。
「え、あ、俺が出てるよ」
蓮はかぶりを振って言う。
「その足でどこ行くって? まあ……別に俺は聞かれても構わないんだけどな。航生は?」
「やましいことを話すつもりはない」
だったら、と風吹は航生を部屋へ招いた。三人が部屋へ入ると、蓮はスマホをいじってヘッドフォンを掛けた。
彼なりの気遣いのようだった。
「……紅音、何だって?」
コーヒーを淹れて航生の前に置く。風吹は意外と冷静に話を切り出すことが出来た。
「……泣いてたよ。ふられたって」
「そっか。ちゃんと慰めてやったか? しっかり点数稼げよ」
「そんな所に付け込んでも仕方ないだろう。そういうやり方、俺は好きじゃない」
「だろうね」
風吹は航生の向かい側に座って、浅いため息をついた。
ベッドに転がって雑誌を繰る蓮の耳元からスティーブン・タイラーのシャウトが洩れ聞こえる。
部屋は、そのくらい静かだった。
「これ……預かったよ」
航生がポケットから出したのは、先刻紅音に渡したブレスレットだった。
「別れた男からは貰えないって?」
風吹が聞くと、航生は首を振った。
「嘘、なんだ。誕生日って」
「……は?」
「あの時は、俺に同情して欲しかったんだって。誰にでもあるだろ? ただ、誰でもいいから味方になって欲しいとき……ちょうど隣に居たのが俺で、頭に浮かんだのがそんな嘘だったって……」
「マジかよ」
テーブルの上で光る桃色の石が、妙に滑稽に見えた。
「お前が悪いんだからな」
「は? なんで、俺?」
「お前がしっかり捕まえておけば、紅音ちゃんだって、俺なんかに同情を求めたりしなかっただろうよ」
「そりゃ……そうだけど……」
「まだ気持ちがあるんなら、今すぐヨリ戻せよ」
傷ついたところに優しくして付けこんで、そのまま自分のものにしてしまえばいいのに、そうせずに更にヨリを戻せだなんて、航生も十分お人よしだ。
けれど、自分の性格は変えられそうにもないし、これからもきっと同じ理由で紅音を傷つけてしまう。そう思ったら、このまま別れた方がいいはずだ。
きっと、航生の方が紅音を幸せにしてくれる。
「……悪いけど、無理だ。俺……あいつのこと、もうダチとしてしか見られないんだよ」
「なんだよ、それ……」
航生が少し声のトーンを落す。擬音をつけるのであれば、こめかみ辺りからカチン、と響いているのかもしれない。
「そのまんまだよ。あ、航生……紅音のホントの誕生日聞いた?」
「風吹、ヒトの話聞けよ」
「なあ、聞いた?」
「……来月、だって」
「そっか、了解。航生はちゃんと忘れないでやってくれよ。お前なら、大事な友人託せるから」
「風吹! いい加減にしろよ!」
航生が声を荒げた。どん、と手をついたテーブルが揺れて、コーヒーが大きく波を立てる。
滴が弾けて、テーブルに水玉をつける。
「……これ以上、惨めにさせないでくれよ」
「ふ…ぶき?」
目を伏せて、呟くように声にした風吹に、航生が戸惑う。
「……あいつを大事に出来なかったのは俺だし、紅音に嘘つかせたのも俺だよ。自分ばっかり幸せで、ひとつも考えてやれなかった、あいつのこと。俺じゃ同じことを繰り返しちまう……なあ、航生、お前なら大丈夫だと思うんだ」
「風吹……でも、選ぶのは紅音ちゃんだ」
「大丈夫。あいつは素直だから、航生のこと選ぶさ」
軽く笑みをつくると、航生も曖昧なまま頷いた。
航生を玄関で見送ってから、風吹はベッドに転がる蓮のヘッドフォンを外した。
「……サンキュな」
「バラードになったら丸聞こえだったけどね」
蓮が体を起してベッドから両脚を降ろす。
風吹はそれを見て思い出したように足首に目を落した。
「腫れ……ひどいな」
「遠藤のココより痛くない」
蓮はしゃがみ込んだ風吹の胸に手のひらを当てて笑った。
「ほとんど聞こえてたみたいだな」
「バラードが続いたんだ」
蓮は言うが、聴いていたアルバムにバラードは二曲しか入ってなかった。
風吹は蓮が心配してくれているんだと気付き、どこか暖かい気持ちになった。
「じゃ、行こうか」
「……どこへ?」
風吹の突然の言葉に、蓮が驚いて聞き返す。
「病院」
「いや、いいよ!」
「放っておくわけにいかないだろ?」
風吹は言いながら、そっと膨れ上がった足に触れた。蓮が苦痛に顔を歪める。
それを風吹はじっと見上げた。
「やっ、行くから、触らないでっ……」
うっすらと涙を浮かべた蓮を見て、風吹がそっと手を離す。
「いい子だ」
風吹は蓮の零れそうになる涙を指の腹で拭ってから笑った。
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