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針葉樹についた滴が、風に流されて視界を白く染める。
真っ白なレース越しに見るようなその景色は、印象派の絵画に似ていた。
色づき舞う広葉樹の葉が足元に広がり、色を添え、風がひっそりと立ち尽くすその人の髪をシャツを撫でて、はためく上着は羽衣にも似ていて――
ここがキャンパスで、自分は今しっかり起きている、そんなことすら忘れそうな、夢の一場面のような景色だった。
「……蓮」
捜していた人は、そこに居た。
声を掛けると、天女は途端友人へと変わり、いつもの笑顔を向けてきた。
「何してんだよ、傘は?」
風吹は蓮に傘をさし掛けて、聞いた。
ぼうっと立ったままだった蓮が首を横に振る。
「……頭、冷やしてたんだ」
「……はあ?」
「全部、忘れるかなと思って」
その言葉が妙に切羽詰っているようで、風吹はまともに返事が出来なかった。
「……今日、講義出てないって聞いた。一日、ここに居たのか?」
「いや……色々野暮用で」
「男関係? 親衛隊とかって奴?」
「親衛隊? 何それ、あいつ等はそんな健気なもんじゃ……」
蓮はそこまで口にして、しまったといった具合に口を閉じた。
「……何か、あったんだな。昨日、お前のこと襲った奴らか?」
「なんでもない。ホントに、なんでもないんだ」
蓮が俯いてしまうので、風吹は居た堪れない気持ちになる。
「……姫様、なんてただの冷やかしなんだな」
「ああ……経済の誰かに聞いたんだ、それ」
「……言えば、楽になることもあるよ……?」
風吹は、蓮の目を見詰めて細く笑った。
「……俺が遠藤の家の前に蹲ってたあの日……維幸さんにバレたんだ、俺の嘘。遠藤が彼女と居るところ、あいつ等の誰かが見たらしくて。で……呼び出されて、無理矢理された」
「されたって……」
「男の体ってさ、受け入れるように出来てないんだよ。だから、準備が要るんだ。それ、怠ると殴られるより辛いんだ……今日も、ね……」
蓮が、ぐっと拳を握りこんだ。
口調は軽いが、言っていることは重く未知の領域なだけに、風吹には途方もないことのように聴こえていた。
「もう、いいよ。辛いなら、話さなくていい」
「……軽蔑、しないんだ」
「するね、そいつ等を。蓮、この先なんかあったら……いつでも相談乗るから、言えよ」
風吹が言うと蓮は、きっ、とそれを睨み上げた。
「適当なこと、言わないでよ。俺は、王子様しか要らないんだから、その気がないなら優しくなんかするな」
哀しそうな目だった。視線は強いのに、その奥は脆くて、震えているようだった。
「なんだよ。使用人くらい、居てもいいだろ?」
「要らない」
蓮は、そう言いながら、ふわりと風吹の体に両腕を廻した。
驚いて風吹が傘から手を離す。
「おい、蓮っ……!」
「……遠藤なんか、大嫌いだ」
胸に顔をつけ、くぐもった声で蓮が呟く。
泣いてる、そう気付くのに時間はかからなかった。
風吹はおずおずと、蓮の肩に腕を伸ばした。ゆっくりと包み込んだその体は大分冷えていた。絞れるくらいに濡れた衣服から体温が伝わる。
「冷たかっただろ」
聞くと、蓮は僅かに頷いた。それでも頭は何も忘れてくれない、と呟く。
知らずに風吹の腕に力がこもる。気付けば大事そうにぎゅっと蓮を抱き締めていた。
「……あったかいな、雨」
蓮は、風吹の腕の中、呟いた。
「そうか?」
俺は冷たい、と笑う。
「……遠藤から落ちてくる雨、すごくあったかい」
風吹の濡れた髪の先から、蓮の頬に滴が落ちて弾ける。
蓮はそれを嬉しそうに受け止めていた。
「けど、これ以上ここに居たら、本気で二人ともダウンするぞ」
「だね。帰ろうか」
「そうだな」
二人はゆっくりと離れ、なぜか照れくさそうに距離を空けて歩き出した。
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