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充分に濡れてしまったため、久しぶりの仕事だった置き傘はすぐに閉じられてしまい、少し不満そうだった。
同じ理由で、風吹はバイクで帰ることにした。蓮もこの際だからと同乗した。こんな格好では電車もバスも、ましてタクシーなんて乗れない。
ひとまず風吹のアパートに向かい、シャワーと着替えを済ませた蓮はほとんど何も喋らずにぼうっと座り込んでいた。
「まだ髪拭いてないのかよ。風邪曳くぞ」
シャワーから出てきた風吹は、そんな蓮を見て、肩に掛けていたタオルで蓮の髪をわしわしと乱すように拭いた。
「うん、ごめん……ちょっと、ぼんやりしてた」
蓮は為されるがままにされながら呟いた。
「……何あったか知らないけど、忘れちまえよ」
目の前にしゃがみ込んで、風吹が蓮と目線を合わせる。
蓮の目には、うっすらと涙が溜まっていた。
「呑もうか、遠藤」
「お、いいね。俺もそんな気分」
「傷心の遠藤クンもですか?」
ようやく笑顔を見せた蓮が悪戯っぽく聞く。
「まあな。これでも親友に彼女取られた可哀想な男、だし」
「自分で譲ったくせに」
くすくすと蓮が笑い出したので、風吹はどこかほっとしていた。
ここ数日で、風吹が思ったことがある。
蓮の涙は、心臓に悪い。
同性だと理解しているのに、その涙に惹きつけられ、腕が勝手に伸びてしまいそうになるのだ。
まるで、魔法にでも掛かったように。
次にそんな場面に直面したら、抱き締めてしまうかもしれない――さっき、林の中でそうしたように。
王子様じゃなきゃいらない、と言っていた蓮のためにも気紛れにそんなことをしちゃいけない。
だから、もう涙は見たくないんだ。
「……だからな、蓮。俺はあ、放っておいたつもりなんか、これっぽっちもねぇの……」
小さなテーブルの上には、空になった缶ビールが数本並んでいる。
その一辺には飲みかけの缶を片手で弄びながら、くだを巻く風吹。向かい側には、そんな友人の愚痴を呆れ顔で聞く蓮が居た。
「でも、友達の関係になって一件落着、なんだろ?」
「そうだけどよ……。女って、わかんねぇよ……」
ぱたん、と頬をテーブルに付け、風吹はそのまま目を閉じてしまった。
「……遠藤?」
遠くから蓮の声が聞こえる。けれど、風吹はそれに反応することが出来なかった。とにかく眠い。
けれどまだ蓮の話を聞いていないのだ、眠るわけにはいかない。
頑張って体を起こそうとするが、起き上がれない。
「蓮……ごめん……」
「ごめんじゃないよ。てか寝るならベッドで……」
体が無理やり起こされる。きっと蓮がそうしているのだろう。
「……遠藤のバカ」
そんな言葉が耳元で聞こえるが、反論することは出来なかった。
とにかく眠くて、布団を探す。柔らかなそれを引き寄せる。風吹はそれを抱きしめて眠りに落ちた。
柔らかくて暖かい、焼きたてのシフォンケーキが唇に当たった。
あ、俺の好物と思って口を開いたら、とろっと溶ける様なチョコレートに変わっていた。
嫌いじゃないからいいや、と口の中で転がそうとすると、チョコレートは逃げるように飛び出て行ってしまった。捕まえようと腕を伸ばす。
捕まえた、と思ったら意外にそれは大きくて、両腕で抱き締める大きさのマシュマロに変わっていた。
マシュマロは苦手なんだよな、と思いながらもせっかくだからと噛み付くとマシュマロが「痛い」と声を上げた。
「痛いよ、遠藤!」
聞き覚えのある声でマシュマロが言う。
「噛まないでよ」
この、声は……蓮に、似てる。
「遠藤、ちゃんと起きてる?」
あ、蓮だ。
え、蓮?
……………。
「蓮って、マシュマロなのか?」
「はあ? 寝ぼけてる?」
ぱち、と目を開けると極近くには蓮の顔があった。
状況確認。
風吹は今、自分のベッドに横になっているようだった。それに覆いかぶさるように蓮が居る。風吹の腕は蓮の背中に廻り、彼の自由を拘束している。
訝しげに見詰める蓮の顔。唇は色っぽく濡れている。
まさか。
「俺……蓮に、なんか、した?」
「……やっぱ、寝ぼけてたんだ」
ため息をつく彼の体から両腕を解く。蓮は起き上がって、ベッドに腰掛けた。
「遠藤が寝ちゃったから、ベッドに運んでやろうと思ってここまで引き摺ったまではよかったんだよ。けど、なんか、俺……遠藤にキス、したくなって少し、ほんの少しだけ触れるくらいのキスをしたら……突然遠藤が抱きしめて、深いの、求めてきて……」
「……あー、そうなんだ……」
風吹は蓮の説明に、両手で顔を覆ってしまった。
シフォンケーキは、蓮の唇。チョコレートは蓮の舌。マシュマロは蓮の体。そういうことだったのだろう。
「……怒らないのか?」
「そりゃ、こっちの話だろ。……寝ぼけてたとはいえ、悪かった」
風吹は起き上がって頭を下げた。
けれど、蓮は首を横に振った。
「俺、嬉しかったから。遠藤のこと、好きだし」
「友達としてだろ?」
「いや……そうじゃなくて」
「そうじゃないって?」
まだぼんやりとしている風吹は、地雷に直接ダイブするように聞き返す。
蓮は、一度きゅっと唇を噛んでから俯いて答えた。
「だから……遠藤と恋愛したいって、思ってる」
「…………へ?」
あまりの衝撃に、酔いも吹っ飛ぶ。どうやら埋まっていた地雷はかなり大きめだったようだ。
「さっきみたいに、深いキスとか、したい。いっぱい触れて触れられたい……その先だってしたい。そう、思ってんだよ」
背中を向けたままの蓮の言葉が、刺さる。
小さく映るその背中が震えていた。
答えを出したら……また泣くだろうか。そんな風に考えた、その時だった。
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