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「へぇ……で、女の子を庇ったら遅れたって、言うわけか?」
満面の笑みで部長が目の前に立っている。紺の剣道着、右手には使い込まれた竹刀。
「ええ……あ、ほら、右の頬腫れてるでしょ? これ、相手の男に殴られたんですよ!」
風吹の言葉に、部長は笑顔で頷いた。
「左の頬を出せ、揃いにしてやる」
「それは、意味が違いますよ、先輩!」
ぱん、と部長の竹刀が左手の中で鳴る。それを見て、風吹は慌てて後退りした。
「言訳はもういい! とっとと着替えて来い! すぐに始める」
「はいぃぃ!」
――結構身近にホモって居るんだな……いや、なんかアイツなら分かる気がするけど……俺だって遠目だったら女だって思ったわけだし。
風吹は更衣室で着替えながらさっきのコトを思い出していた。女の子と間違えそうな華奢な男。それに掴みかかっていた男。どう考えても異常な現場だったことに変わりはない。
――変なことに巻き込まれたな。
風吹はふう、とため息を漏らした。
紅白試合を終え、その後更に部長からのシゴキを受け、ボロボロになった風吹は道場の入口に談笑する男女を見つけた。
一人は剣道着の長身の男、もう一人は秋らしいワンピースにブーツ姿の女。二人とも風吹の親しい人だ。
「紅音」
風吹は、二人に近づきながら女の方の名前を呼んだ。
白谷紅音。現在風吹が交際している同じ学部の学生である。
「お疲れ様」
紅音は、風吹の姿を捉えると、屈託のない表情で笑いかけた。
「もー、へとへとだよー」
「お前が遅刻なんぞするからだろ」
剣道着の男がため息を吐いた。
北嶋航生、風吹と同じく一年だがこちらは理工学部の学生である。航生とは、小学生からの親友で互いの女遍歴を空で言えるくらいの仲ではある。
「そんなの、発達心理学の教授に言ってくれよ。長いんだよ、話」
「確かに」
紅音が笑う。彼女も風吹と同じくその講義を受けているのだ。
「ウチの部長も融通利かないからなあ」
「利かなすぎ」
風吹がため息を吐くと、航生がふとこちらを見つめた。
「――ところで、それ、大丈夫か?」
航生が人差し指で風吹の頬を軽く突付いた。
「痛っ、触るなよ。口ん中も軽く切れてんだから」
風吹が航生の手を振り払い、頬を軽く擦る。
「どうしたの? それ」
紅音が驚いて見上げる。
「聞いてくれる? 紅音。さっきさぁ、ここにくる時遅刻すると思って林ん中突っ切ってきたんだよ。そしたら、見事に別れ話してるカップルが居て、男が手挙げたわけ。で、気付いたら代わりに殴られてました」
「助けたの? 風吹」
紅音が驚いた顔をする。
「結果的に」
「へぇ、すごいじゃない。名誉の負傷じゃない」
「自慢の顔に傷がついけど」
「それでちょうど良くなったんじゃないか?」
航生が横から口を挟み、笑い出す。紅音もつられて笑顔を向けた。
「航生! こらぁ」
航生に掴みかかろうとすると、その体はひょいと腕をすり抜けた。道場を駆け回る足音が響く。
「冗談だってば! いいから着替えろよ。紅音ちゃんいつまで待たせる気だよ」
「そうやって逃げるんだよな、航生」
「お前に掴みかかられたら、俺の端正なカオを台無しにさせられそうだからな」
「よく言うよ」
笑いあって、互いの懐に軽く拳をぶつけ合う。
よく、この光景を紅音は『じゃれる』という。ネコかよ、俺らは…なんて航生と二人抗議したこともあるが、最近ではその言葉が嵌っているような気がしてきていた。
ネコが毛糸玉を追っているような穏やかな光景なのかもしれないと。
なぜなら実際、『じゃれて』いる二人も穏やかな気持ちでいたから。
この時の風吹は、このまま大学生活が流れていくと信じて疑わなかった。
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