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用を足し、戻ろうとすると障子の向こうから自分の名前が響いて不意に足を止めた。
なんとなく、自分の話題で会話がなされているところに入るのは気まずかった。
「風吹はホント、幸せ者だよ。紅音ちゃんみたいな彼女が居て」
「そう思う? 私もね、勿体無いと思うのよ」
紅音が冗談っぽく笑いながら言う。
「だね」
航生の笑い声も響く。
全くヒトが居ないのをいいことに、と風吹が思っていると突然紅音が真面目な声音で話し出した。
「航生くんは……彼女は?」
「いない、けど……」
「変だよね。航生くんみたいなカッコいい人に彼女居ないなんて」
「煽てても今持ち合わせないよ」
航生が笑いながら答える。
「ホントに思ってるの。私ね、風吹ともう……無理なんじゃないかと思って」
紅音の言葉に、航生の笑い声が掻き消えた。
風吹も一瞬体が凍ったように動かなかった。足元から血の気が引いていく感じがした。
何か気に障るようなことをしただろうか。順風満帆だと思っていたのは自分だけだったのか。
「何……言ってんだよ、紅音ちゃん」
「風吹ってね、すごく友達想いなの。それで、すごく優しくてねすごく気が配れるんだよ」
「うん、知ってるよ。いい奴だよ」
「でね、自分からトラブルの仲裁に入ったりするくらい正義感があって、強くて、明るくて」
「だよね。あの生命力には負けるよ」
「だから……もう辛いの」
「え……? や、あの、よく話が……」
航生が突然焦ったように聞き返す。
「風吹にとって、私の価値ってそんなに高くないのよ。多分、航生くんと同じか……それ以下」
「そんなことは……」
「あるのよ。だって、現に今日は試合だって覚えてても、私の誕生日だってことは忘れてるんだもの」
紅音の言葉に風吹の心臓が射抜かれる。
風吹は慌てて自分のスマホを開いた。
誕生日なんて聞いたことあっただろうか。ちゃんとスケジュールの中に入れていた気もするのだが、今日の欄は空白だった。
――最低だ、俺……
紅音は、自分からの誘いを待っていたのかもしれない。試合を見に来たのも、会えばプレゼントの一つくらい渡して貰えると期待していたのかもしれない。
風吹は、自分の唇を噛み締めた。
「……おめでとう」
中からは航生の優しい一言が響いた。
「航生くん……」
「風吹だって、きっと試合に集中してただけで、普段なら覚えてる。だから……許してやってよ」
「航生くんは、優しいね。でも、私はそんなに優しくなれない」
紅音の言葉を最後通告と判断した風吹は、そのまま部屋には戻らずに店を出た。
防具やなんかは航生に任せようと思った。
今は、二人の顔をまともに見る自信がない。
――あり得ねぇよな、彼女の誕生日を覚えてないなんて。付き合いだして半年以上……忘れてたなんて言えるはずがない。
もう紅音の心は戻ってこないだろうな、とため息をつく。夜の纏わりつくような湿った空気が、風吹の足取りを一層重くしていた。
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