184人が本棚に入れています
本棚に追加
RAIN1 お人よしってこういうこと
最後の講義が長引いてしまった。確か、紅白試合は午後四時半からだ。
現在、時刻は四時十五分。現在地は、教育学部――キャンパス全体の最西部にあたる。そして、これから向う剣道部の道場は、東の端にある。
――これは、林間を抜けるしかない!
遠藤風吹は肩から提げていた鞄を後ろへ廻し靴紐を締め直した。
キャンパスの中央を占めている林は、所々にベンチが設置されていて、場所によってはとても居心地のいい場所である。が、同時に邪魔であったりもする。道らしい道がひとつもなく、結局周囲を囲むように設置されている歩道をぐるりと歩くしかないのだ。風吹も普段はそうしている。
けれど、今日はそう悠長に歩いている場合ではない。剣道部の部長は恐ろしく几帳面で、その上笑って怒れる先輩なのだ。その笑顔の怖いことといったら……想像すらしたくない。
風吹は体に当たる枝先を掻き分けながら最短距離を駆け抜けた。丁度、林間の中央に来た頃だった。
「じゃあ、別れるってのかよ!」
激しい怒声が聞こえて、風吹は足を止めた。自分が突っ切ろうとしていたその場所に、男女の姿が見えてしまったのだ。
「なんとか言えよ」
男は、既に怒り以外の感情を捨てているようだ。立ち尽くす女に近づいてそう凄んだ。
女の方は、圧倒されて何も言えないのか黙っている。
「は、こんな時まで姫様かよ。……その顔、めちゃめちゃにしてやろうか」
男が、女の胸倉を掴む。
まずい、と思った。思ったら……足が前に出ていた。
「……ったぁ…」
次の瞬間、風吹の視界には晩夏の太陽をうけた青芝が広がっていた。どうやら、男に殴り倒されたらしい。
右の頬がじんじんと疼いた。
「なんだ、お前」
「なんだって、聞かれても……殴るのはまずいっしょ」
風吹は頬を押さえ、起き上がる。芝の上にだらしなく座ったままこちらを見下ろしている男の顔を見やった。
「そっか。そういうことなんだな、蓮。分かったよ、君の気持ちは」
男は、女を睨みつけて踵を返した。怒ったままの肩が左右に揺れている。
風吹はその背中を見送りながらため息をついた。
「あんた……バカだろ」
今まで黙っていた女が口を開いた。女の子にしては、あまりに低いテナーヴォイス。
「え……お、男?」
見上げた顔は、確かに整っていてキレイだ。さらさらとした薄茶の髪と同じ色の大きな瞳、華奢な首筋と中性的なものを持っているが、よく見れば立派に男だった。
「だけど?」
「うっわ、じゃあただのケンカかよ。損した! くー、余計痛くなってきた……」
風吹は頬を擦りながら立ち上がろうとした。それに、蓮が手を差し伸べる。細い腕を借りて風吹が立ち上がった。
「悪かったね、男で。でも、勝手に殴られたのは君だからね」
「わーってるよ……」
風吹は体についた芝を叩いて落しながら不機嫌に答える。
「礼は言うよ。でも、男同士の修羅場には入ってこない方がいい」
「肝に銘じるよ」
蓮は、頷いてそこを去って行った。
その華奢な背中を見送ってから、ふと覗いた腕時計は、四時半を越えていた。
最初のコメントを投稿しよう!