眺望魚

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 何回かループを繰り返し、私は海を自由に動き回る大きさの体を手に入れました。そして満月の晩、他の『私』が一斉に逃げ出すのを横目にみつつ、一目散に逆方向へと泳ぎ出しました。  目的はただ一つ。『黒い海』の正体を見るためです。私は今回、ただそれだけのために自分の命を使うのです。ああ、私はなんて愚かな魚なのでしょう。  夜の海をしばらく泳ぐと、何の気配もしなくなりました。月の光が差し込んでいるだけで、小魚一匹いやしません、きっと、他の生物たちも何かを察し、逃げ出したのでしょう。  夜の海を見上げたことはありますか? あなた方人間にはないでしょうね。月明かりが差し込んで、薄ら明かりが漂うだけの、変に不気味で、一人ぼっちで、不安な夜の中。  そんな不気味な静かな海に現れたのは、一匹の大きな船でした。当時の私でも船という存在は知っていました。海のほかに、陸の世界があるということも。  船の腹を見上げながら近づき、同時に私は驚きました。こんなに大きな船を見たことがなかったからです。  鯨に例えるまでもありません。鯨の何倍も何倍も大きいのです。ひょっとしたら、船ではなく島なのかもしれない、と私は思い始めました。だけれども、それは船でした。エンジン音がうなりを上げ、船の腹を波が打ち、耳をつんざく轟音がします。  私は船に近づくにつれ、その異変に気付き始めました。周囲の水温が上昇し始めたのです。夜なのに、真夏の昼のような暑さを感じます。水温はもっともっと上昇し始めました。まるで、この身が生きたまま茹でられるようです。  私は、今回のループで生き延びるつもりは毛頭もありませんでした。もはや生きては戻れないと自覚してなお、私は船に近づきました。  ……知性化、というのは素晴らしいものですね。一介の魚である私の頭でも、あの時のあれが何だったのかが、今ではわかります。  そう、あれは事故だったのです。  海は燃えることがある、というのは初めて知りました。正確に言えば、燃えているのは海上の船と、その周囲の海の上だけです。私はその目で、燃え盛る海を下から眺めているだけでした。  あれほどの災害は、あなた方人間の世界でも珍しいことでしょう。当たり前です、あれほどまでに大きな船に、燃える水をめいっぱい積んでいたのですから。  そろそろ、あなたもお気づきでしょう。あれはタンカー事故だったのです。  私が生まれ育った海を汚し、一切合切の命を奪い、生き物の住むべきでない海域へと変貌させてしまう。あの『黒い海』の正体を、今回のループで知ることができました。そうです。あれは、海に流れ込んできた原油だったのです。  そうして一匹の眺望魚は、その短い命を終えました。彼にとって、そのループはそれで十分でした。あの黒い海が陸の世界からもたらされたのだとわかれば、次は陸の世界を知ればいいのです。  ……実を言うと、私は何度か陸に上がったことがあります。そのうち大部分は、短い命でした。釣り人という人種は、私を空気の上に引きずり出すと、そのまま私の首を切り落としてしまいます。コンクリートという岩はあまり好きにはなれませんね、体がゴリゴリと削られるようですから。  首を切り落とされた私は、しばらく生きてはいるのですが、水中で生まれ水中で死ぬはずだった私の目に、空気中の物体など見えるわけがありません。だから何が起こっているのかはよくわかりませんでした。覆いかぶさるような、二本足の大きな影と……それだけです。  一度は生きたまま食べられたこともあります。人間の中の腹の中というのは……まぁ、そうですね。あまりサメに喰われるのとは変わりありませんよ。幾分か生暖かいですが。  生きたまま陸を移動したこともあります。あれはたぶん魚市場でしょうね。その時の私は水槽に入れられて、生きたまま売られているようでした。  たまに人間が来ると、仲間の眺望魚が掬い取られて、目の前で頭を切り落とされて売られて行きます。かくいう私も切り落とされて売られて行きました。あれはなかなか愉快なループでしたね。  逆に、陸上で天寿を全うしたこともあるのです。知性化した今ならわかりますよ、あれは水族館というところですね? あそこは快適なところでした。  水温は適切に管理されていましたし、我々を喰らう天敵はいませんでした。ガラスの壁から人間の影がいつも見えるのには閉口しましたが……いつしか私は慣れていきました。  狭い水槽の中でずっと過ごさなければならないのは気が狂いそうでしたが、それを除けばとても快適でしたよ。一度はそこで、卵を産んだこともあります。眺望魚の繁殖に成功した、なんて人間たちが喜んでいましたっけ、やれやれ。  ちなみに、私は水槽の中で、ある日突然死にました。原因はおそらく、水槽ポンプの故障か何かでしょう。突然息ができなくなって、苦しくてぐるぐると動き回っていたら、そのうちダメになったのでしょう、命は終わっていました。  そして、今回のループはこれです。『海洋研究所によって、知性化された眺望魚』……これが私です。最近の私は陸を知ることに特化してループを繰り返していました。あなた方人間は、人間が私を選んだと思っているでしょう?いいえ違います、私があなた方を選んだのです。  過去のループの経験から、水中に浮いている網にかかると殺され、檻なら生け捕りにされることはわかっていました。私はもう何万回もループしていたので、あとはしらみつぶしに檻に入るだけでした。海中の、左の檻は『魚市場行き』。真ん中の檻は『水族館行き』。では右端の檻は……?そう、『海洋研究所行き』だったのです。  今回は大成功ですね。知性化された頭の記憶は、この後のループにも残るでしょう。人間の技術と生態は、このループで全て学習することができました。これ以後の私は、もう二度と人間の罠によって悩まされることはないでしょうね。
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