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17
朝の8時半ともなると自由が丘駅はサラリーマンでごった返していた。黒い集団を掻き分けて路地に急ぐ。田野は黒いジーンズに真っ白な無地Tシャツを着ていた。今朝方テレビの中でニュースキャスターが梅雨の終わりを宣言し、これからは猛暑が始まるそうだ。鬱陶しい夏への準備期間が始まる。しかし今の田野にとってはそれら全てが幸福を成す為の材料に過ぎない。雨上がりほど透き通った空はないのだ。
「おはようございます。」
レ・クオーレの扉を開ける。従業員たちが返す声を浴びながら田野は出勤表に名前を記した。
「ねぇ、有紗ちゃん。事件が起きたよ。」
年が同じだという彼女は確か星野香織と言った。長い黒髪を上で束ねている。
「どうしたの。」
「店長の髪型、見てよ。」
首を伸ばしてカウンターの奥を見ると、岸辺がパソコンと向き合っていた。黒いワイシャツは白い花をプリントしており、真っ白なワイドパンツの裾から焼けた肌が覗いている。しかし真っ先に目が行ったのは彼の髪型だった。
肩に掛かるほど伸びていた毛が忽然と消え、側頭部を刈り上げている。短い黒髪をジェルで整えているのか左側に流れており、まるで滝が停止しているようだった。田野の後に入ってきた先輩の女性が扉を開けるなり真っ先に声をあげる。
「店長、その髪型どうしたんですか!」
あまりの大声に皆声を揃えて笑った。岸辺はキーボードの上で踊らせていた指を止めて整えた髪型を撫でて言う。
「雨が上がったからさ。」
皆口々にえーと声を上げたものの、岸辺がこちらを見てそう言ったことを、田野はしっかりと気が付いていた。3年間彼の心を覆っていた雨雲が消え、太陽が差す。やはり雨上がりは透明なブルーなのだ。
談笑する従業員を掻き分けてスタッフルームに入る。白いワイシャツに着替えてエプロンを身に付けると、岸辺が入ってきた。こちらを見て少し照れたように微笑む。床屋から帰宅したばかりの少年のようだった。
「有紗、どうかな。バッサリ切ったんだけど。」
「とても似合ってますよ、恭一さん。」
飛び跳ねるように岸辺の懐に立ち、緩みきった口元を隠さずに見上げる。笑い合うタイミングも、軽くキスをするタイミングも同じだった。恋を知ったばかりのようで、心が躍る。岸辺はあの匂いを香らせて言った。
「それじゃ今日もよろしく、田野さん。」
「はい。店長。」
彼が扉を開け、2人は開店準備を行うカフェに戻った。今は店長と新米のアルバイト、そして夜になれば恋人になる。2人の関係性が空のようだなと心の中で呟き、田野はカウンターを抜けていった。
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