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出会いは大学1年の冬だった。
実家暮らしをやめて学生用マンションに移り住み、定期的に仕送りは来るものの、小遣いを稼ぐにはバイトをしなさいと両親に言われてから数日後、自宅と大学を結ぶ大井町線、自由が丘にとあるカフェを見つけたのだった。
駅から徒歩数分、多くのチェーン店を抜けて路地に入ると物静かな雰囲気が漂う。通りの左手に面したレ・クオーレは全面がガラス張りになっているため、外から店内を見渡すことは容易だった。以前はコンビニエンスストアとマンションが繋がっていたビルの1階を改装し、駐車場をオープンなテラス席に造り替えたらしい。暖色の明かりが道に漏れている夕方にレ・クオーレを見つけた時、田野は真っ先にここで働くことを決意したのだった。それが岸辺恭一との出会いでもあった。
店内に入ると、手前にテーブル席が点々と置かれており、奥に真っ直ぐとカウンター席が伸びている。オープンなキッチンは海外を思わせるレンガ壁で、金と銀に輝く食器で彩られている。薄めたような橙色の照明は外から見ると力無い印象だったが、実際に店内に入ると、どれだけ暗かろうが昼間を思わせる内装に様変わりするのだ。自分よりも少し歳が上であろう女性の従業員に促されてテラス席に腰掛け、店長を待つ。バイトの面接に適した服装なのか心配だったが、田野はぴったりと張り付いたジーンズに白いオーバーサイズのニットを着用していた。髪色、髪型が自由ということもあり、明るい茶髪の毛先は鎖骨の上で内側に畝っている。
「やぁやぁ、お待たせ。」
薄いガラスの扉を開けて、1人の男性がこちらに歩いてきた。その姿を見て田野は息を飲んだ。
黒いワイシャツは上のボタンを1つだけ開き、同色のジーンズを履いている。濃いベージュのブーツを鳴らし、ネイビーのエプロンをたなびかせていた。漆黒のジャケットが日光を照り返している。何よりも驚いたのは、その顔だった。
角ばった骨格が男らしく、凹凸が多いように見える。目は控えめだが涙袋は大きかった。すらっとした鼻筋にすぼんだような唇。蓄えた顎髭はまばらで、肩の上でしなる長い黒髪は女性のようにしなやかだ。髪を搔き上げて田野の前に座る。丸い木目調のテーブルに銀色の灰皿、田野が先程女性従業員に手渡した履歴書を置いた。
「あ、タバコ吸っていいかな。」
「はい。大丈夫です。」
煙は苦手だが、つい了承してしまう。あまりにも緊張してしまった。想像をはるかに超える渋さを持った店長は明るい黄色のアメリカンスピリッツを抜いて鈍色のジッポライターで火をつけた。柔らかな煙が漂う。肘を曲げて頭上にタバコを掲げた店長は誰もいないテラス席に煙を吐いて言った。
「岸辺恭一です、よろしくね。」
まるで彼の言葉1つ1つに紫色の温もりが宿っているかのようだった。深夜に聞けば数秒で眠りについてしまうことだろう。田野は落ち着いた口調で答える。
「はい。よろしくお願いします。」
「えーっと、田野さんね。北千束なんだ。結構近いね。」
まるで説教を受けているかのように田野は膝に手を置いて俯いていた。岸辺の顔を見たら言葉を失ってしまう。これほどまでに完璧な雰囲気、外見を伴う男性がいるだろうか。一瞬の隙もないような風格の岸辺が煙を吐くと、妙な香りが漂った。これは一体何だろうか。うまく答えを出せずに黙り込んでしまう。
「田野さん、いいかな。」
「あっ、はい。」
それからはどういうシフトで働くことができるかの業務的な会話だった。大学の空いた時間を頭の中に思い浮かべていく。その間も田野は心のどこかであの匂いを思い出していた。
一通りメモを取り、岸辺は灰皿にタバコを押し付けた。疲れを削り取ったかのように吐き捨てる。岸辺は一拍置いて目を閉じ、真剣な眼差しで田野を見つめた。思わず胸の奥がとくんと蠢めいてしまう。視線で体中を縛られているようだった。1時間ほどに感じられた数秒が終わり、岸辺は背にもたれた。すぼんだ唇の端がにやりと傾く。
「うん。いい目をしてる。それじゃ明日からよろしくね。」
そう言って灰皿と履歴書を手にとって岸辺はその場から去った。あの謎の香りを残しながら。
それが岸辺恭一への一目惚れだった。
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