1-2

8/8
前へ
/648ページ
次へ
 カラミティウェザーは呼吸を乱していた。脇腹に刺さっている十字槍の毒が全身に回ったためだ。毒はアルブラの民兵たちの血で薄まっていたので、カラミティウェザーは死ぬことこそなかったが動きはかなり鈍っていた。 「長期戦は不利か」ラインハルトがいった。「ならば一気に勝負を付けてくれよう。押しつぶせ、カラミティウェザー!」  カラミティウェザーは胸を下方に突き出すような姿勢を取ると、アエーシュマ歩兵隊の上に落下してきた。歩兵たちは慌てて散開する。が、重装備の彼らは早くは動けない。数人は、空から降ってきた災厄から逃れることができず、竜の腹と石畳の間に挟まれた。鎧が割れる音と頭蓋骨が弾ける音があたりに響く。  弓使いの若い兵士が竜から後ずさった。「む、無理だ」 「憶するな」カラスの仮面の戦士がいった。「戦場で臆した奴は犬死する。アエーシュマ歩兵隊の兵士なら、犬死よりも戦死を選べ」 「まさに狂戦士だな」ラインハルトが歩兵たちを見る。「ある意味では、狂王オーヴェルベントの部下にふさわしいのやもしれぬ」  ラインハルトはカラミティウェザーを上空に舞い上がらせた。再び歩兵隊に突撃を仕掛けようと長槍を構えたとき、背後の射手が叫ぶ。 「ラインハルト様!」 「何だ?」 「あれをご覧くださいっ」  ラインハルトが、射手が指差した方向を見る。屋根に対竜バリスタを設置している宿場があった。対竜バリスタのとなりには、一人の黒鎧の戦士が立っている。ジョロウグモのルシアだ。 「無駄だ、ジョロウグモ。そちらの対竜バリスタについてもボルトを隠している。撃つことは⋯⋯」そういいかけて、ラインハルトはバリスタにボルトが装填してあることに気づいた。「ぬぅ、税関所の裏手に隠していたボルトを見つけたか」  ルシアが右手の長剣を振り上げた。長剣の柄で、対竜バリスタの弦を絞っている留め金を叩く。留め金が外れると同時に、弦が弾けてボルトが飛んだ。 「カラミティウェザーを下げろ!」ラインハルトが叫ぶ。  操縦手が素早く手綱を操り、カラミティウェザーの高度を落とした。ラインハルトたちの頭上をボルトがかすめる。 「射手がジョロウグモの存在に気づいていなければ危なかった」ラインハルトは宿場の屋根に目を戻す。「ボルトを見つけて不意打ちを仕掛けるとは、なんと油断のならぬ女⋯⋯」  屋根の上に、ルシアの姿はなかった。 「反撃される前に逃げたか? あの者は逃がすと厄介だ、探すのだっ!」 「その必要はない」  ラインハルトの後方で女の声がした。同時に、二つの斬撃音と短い悲鳴が響く。  ラインハルトが振り返った。「な、なぜ貴様がここに⋯⋯」  射手席の背後に、ルシアが立っていた。ルシアの足元には切り捨てられた射手二人が折り重なるように転がっている。  ルシアは左右の手に握る剣についた血を振り払うと、自身の左腕を見た。「左腕が痛いな。少々無茶し過ぎたか。骨が脱臼せずに済んだだけまだマシだが」 「まさか、対竜バリスタを撃つ前に矢台のボルトに左腕の鎖を巻き付けておき、ボルトの発射とともに飛んだのか。そしてボルトに引っ張られ、竜の背まで来た、と」  体重が軽く、なおかつ強靭な肉体を持っているルシアだからこそできた芸当だった。他の者が真似すれば、竜まで届かず落下するか、左腕を引き千切られていただろう。  ラインハルトがうなる。「仲間を助けるためとはいえ、そのような真似をするとは⋯⋯」 「仲間のこともあるがそれ以上に、わたしの体重は重くはないと証明したくてな」ルシアが二刀の剣を構えた。「貴公の騎竜術の腕前は存分に見せてもらった。次は武術の腕前を見せてもらおうか」  ルシアが射手の死体を乗り越え、長剣でラインハルトに斬りかかった。ラインハルトは鞍の上で身を反転させ、長槍でルシアを迎え撃つ。長剣の刃と長槍の柄が火花を散らした。  戦竜の上に、剣戟の音が響く。ルシアは、対竜バリスタを使った跳躍のせいで左腕を痛めていたうえに、不安定な鞍の上に立っているという圧倒的に不利な状況にもかかわらず、ラインハルトを押していた。 「くっ、やりおる。このままでは⋯⋯」ラインハルトはルシアの剣を受け止めながら、背後の操縦手へ叫ぶ。「操縦手、ジョロウグモを振り落せ!」  操縦手が手綱を振る。カラミティウェザーが巨体をひねり、地面に対して翼が垂直になるように体を傾けた。  ラインハルトは鞍のあぶみにしっかりと足をからめ、自身を支えた。対してルシアのほうは鞍の上から滑り落ちる。ジョロウグモの異名を持つとはいえ、本物のクモのように垂直の壁に張り付くことはできない。  ラインハルトはとどめとばかりに、宙に舞ったルシアを長槍で貫こうとした。「貴様が落ちるのは石畳の上ではない。罪人の魂が逝くという地の底だ!」 「ならばいっしょに来てくれ」  ルシアは右手の長剣を投げつけた。長剣はラインハルトのそばを通り抜け、操縦手の背中に突き刺さる。操縦手は背をのけぞらせると、手綱を放した。  垂直飛行という無理な体勢で操作を失ったカラミティウェザーは、混乱した。姿勢を大きく崩し、上下逆さになる。 「も、戻れ、カラミティ⋯⋯」ラインハルトは鞍にしがみつき切れず、落ちた。  ルシアとラインハルトがともに落下していく。二人が放り出された高さは、三階建ての宿場よりも高かった。落ちて助かる高さではない。  だが、ルシアに焦りはなかった。「今日はよく落ちる日だ」  ルシアは左手の鎖小剣をカラミティウェザーの背に投げつけた。鞍のあぶみに引っ掛ける。そして鎖を強く握り、落下速度を緩めた。同時に鎖を支えにして体を回転させ、脚のほうを地面に向ける。  竜港の石畳の上に、ルシアの体が落下した。ルシアの脚に激痛が走る。しかし、痛みがあるということは生きているということである。ラインハルトのほうは痛みを感じなかったことだろう。頭から落下し即死したのだから。  ルシアはラインハルトの死を確認すると、石畳の上に座り込んだまま脚を調べた。骨は折れていなかったが、それでもすぐには歩けそうにはなかった。 「隊長!」  ラブリスたちがルシアに駆け寄ってくる。ルシアは、無茶をするなというお説教をまた受けるのかとうんざりしながら、ラブリスに目を向けた。  ラブリスの顔は青ざめていた。「隊長、逃げてください!」  次の瞬間、ルシアの目の前にカラミティウェザーが着地した。  しまった、とルシアは目を細めた。  カラミティウェザーの青い瞳がルシアを睨む。カラミティウェザーはラインハルトが乗っていたうちは気品漂う竜だったが、いまは野生の竜のように凶暴さをむき出しにしていた。  ルシアはカラミティウェザーを退けようとしたが、武器がなかった。長剣は操縦手の背中めがけて投げ、小剣はカラミティウェザーの鞍のあぶみから外れて遠くに落ちたままだ。  カラミティウェザーが口を大きく開いた。生臭い息がルシアにかかる。鋭い牙の間には血がついた布切れが引っ掛かっていた。  カラミティウェザーの胃の中には先客がいるらしいな。  ルシアは確実な死を前にして、調子外れなことを考えた。人とは案外、死の直前には死とは関係のないことを考えるものなのかもしれない。ルシアは真理一つを悟ったような気分になり、ふっと微笑すると、死を受け入れるため両目を閉じようとした。死ぬ覚悟はとうにできていた。  そのときルシアの前に、小さな影が割り込んだ。汚れたローブとすそからのぞく細い脚。まぎれもなく、崩れる瓦礫から助けた子供だった。  自身の死は恐れなかったルシアだが、子供の死には恐怖を感じた。  なぜ来たのだ、わたしのことはいいから逃げろ! ルシアは心の中で叫んだが、声に出す時間はなかった。  カラミティウェザーが、邪魔する者はすべて敵であるとばかりに、子供を噛み砕こうとする。が、次の瞬間、竜の牙が止まった。 「な⋯⋯に?」ルシアは、目の前の光景が信じられなかった。「君は⋯⋯」  子供が、竜の牙を止めていた。右手で竜の上顎を、左手で竜の下顎を押さえている。子供がまとっているローブのそでがめくれ、隠れていた腕が露わになっていた。人の腕ではなかった。銀色の鱗がひじから先を覆い、手には指ではなく鋭い鉤爪が伸びている。それは竜の腕だった。  ドラキュリア――竜と人、両方の血を受け継ぐ種族。  ドラキュリアの子供は、竜の口を押さえる格好のまま、しばらくカラミティウェザーと向かい合った。心の中で竜と対話しているのだ。カラミティウェザーに戦いをやめさせ、退かせようとしているのだろう。  数秒後、突然カラミティウェザーはあごの力を強めた。説得失敗したのだ。  子供はわずかにうつむき、そして両腕に力を込めた。子供の銀色の爪が、カラミティウェザーの頭を斬り裂く。カラミティウェザーは喉の奥で小さなうなり声を出すと、だらりと舌を垂らして崩れ落ちた。  子供は鉤爪を下ろした。爪の先から、竜の血が滴る。  ルシアは子供の背をじっと見つめた。本来なら、助けられたことに礼を述べるところだろうが、ルシアの口を突いて出た言葉は疑問だった。「君は、何者だ?」  子供が、鉤爪の先でフードを取り払いながら、ゆっくりと振り向いた。  愛らしい少女。歳は十歳にもならないくらいだろう。さらりとした金髪に、少しだけ日に焼けた肌。それだけ見ればごく普通の少女だった。ただ、少女の目は人間のものとは違った。大きな瞳は虹彩が金色で、瞳孔が縦に割れている。加えて、頭の耳の上部分からは銀色の角が生えていた。子供の頭には少々不釣り合いなくらい大きな角。それらは少女がまぎれもなくドラキュリアであることを――それもかなり竜の血が濃いことを示していた。  ルシアはいままでにもドラキュリアを見たことは何度かあったが、せいぜい小さな角が生えているか、皮膚の一部が鱗に覆われているくらいだった。いま目の前にいる少女のように、立派な角を持っていたり、腕や目が完全に竜化しているドラキュリアなど、噂にすら聞いたことがなかった。  ルシアがドラキュリアの少女を子細に眺めていると、不意に、少女と目が合った。少女はほおを赤らめ、うつむいた。ローブのすそから尻尾が垂れ、所在なさげに揺れる。  角、瞳、鉤爪に加えて、竜の尻尾まであるのか、と思いつつ、ルシアは少女にいった。「すまない。君についてより、命を救われた礼のほうが先だな。助けてくれてありがとう」 「隊長!」  ラブリスとアエーシュマ歩兵隊の隊員たちが、鎧を鳴らしながらルシアに近づいてきた。ラブリスはドラキュリアの少女を見ると両目を剥いた。 「あ~」ラブリスはなんというべきかに困っていた。「隊長の隠し子ですかい? 戦竜を引き裂くなんて、こりゃまたママに似て凶暴なお子さんで⋯⋯」 「世迷言を」ルシアは足元の小石を拾い、ラブリスの胸当てに投げつけた。「それよりも、旗を使って本軍を呼び寄せるんだ」  ラブリスはうなずくと、背後の兵士たち(彼らもまた驚愕の目を少女に向けていた)に旗を上げるように指示を出した。  指示を受けた兵士が去ると、ラブリスはまたドラキュリアに目を戻す。「真面目な話、その子はどうします?」  ルシアはうつむいたままのドラキュリアの少女に目を戻した。「放っておくわけにはいくまい」  ルシアは少女を怖がらせないためにジョロウグモのバイザーを上げた。押し上げたバイザーが日傘の役目を果たしてくれてはいたが、それでも白い石畳の反射光で顔がひりひりと痛かった。  ルシアは痛みを顔に出さないように気をつけながら、穏やかな声で少女に話しかけた。「君の名前は?」  少女が顔を上げ、もどかしそうに口をぱくぱくさせた。が、しゃべらない。 「まさか君は声を出せないのか? これは困ったな」 「変に世話をやく必要はないと思いますがね」ラブリスも獅子のバイザーを上げる。「きっとアルブラの奴らがいっせいに王都に避難したときに親とはぐれて、それで取り残されたんでしょう。アルブラに残しておけば、子供がいないことに気づいて帰って来た親と会えるでしょうよ」 「もうすぐアジ・ダハーカ軍がアルブラへ来るのだぞ」  本軍の兵士たちの中には、民兵や傭兵も多い。そういった者たちは、報酬は少ないかわりに制圧した町の人や物は奪ってよい、という取り決めを軍と結んでいる。非情だが、それが戦の習いだった。民兵や傭兵がドラキュリアの少女を見つければ、ドラキュリアの外見をおもしろがって見世物にするか、主への献上品としてさらうだろう。  罪もない子供をそのような目に合わせるわけにはいかない、とルシアは考えた。「本軍に見つからないように、この子をアジ・ダハーカに連れていこう。そこで戦が終わるまでかくまった後、親を探す」 「ご親切なことで」 「お前もだ、ラブリス。どうせ戦が終わったらまた酒場で呑んだくれるだけだろう。この子の親探しにつきあえ」 「うへぇ」  露骨に嫌がるラブリスを無視して、ルシアは親探しのことを考えた。アジ・ダハーカは、ヤマタノオロチやティアマットにそうしたように、ファフニールを落とすだろう。ファフニールと運命をともにしたいというのでない限り、ファフニール人たちはアジ・ダハーカに移住して来る(幸運なことに、アジ・ダハーカの背は他国の移民を受け入れてもありあまるほど広く、そしてもっと幸運なことに、オーヴェルベント王は民をむやみに虐殺するつもりはなかった)。そのとき少女の親を見つけ出してやれはよい。大勢の移民たちの中から親を探すのは骨が折れそうだったが、ルシアはやるつもりだった。  だがもし親が戦で死んでしまったら⋯⋯、とルシアは思いかけて、頭の中からその考えを振り払った。戦で親を失う悲しみを、ルシアは身をもって知っている。少女が同じ辛さを味わうときのことなど考えたくもなかった。 「親を探すのはいいですがね」ラブリスがいった。「この子の名前も親の名前もわからないんじゃ、探しようもないんじゃないですかい?」 「名前を知る方法はある。この子はドラキュリアだ。リリアなら、この子の言葉を聞けるかもしれない」  ラブリスは、ああ、なるほど、とひげ面をさすった。  ルシアはラブリスとアエーシュマ歩兵隊の隊員たちを見まわす。「少女のことは他には漏らすな。我々だけの秘密だ」  隊員全員がうなずいた。  そのとき突然、ラブリスが思い出したように声を上げた。「そうだ、お嬢! 脚は大丈夫ですかい? ったく、あんたはいつも無茶しますが、今回のはさすがにやりすぎですぜ!」  ラブリスが小言を並べ始める。ルシアはやれやれと肩をすくめた。  ルシアたちが話し合っていた間、ドラキュリアの少女は最初から最後までルシアだけを見つめていた。
/648ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加