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 アジ・ダハーカ王城の大広間。  この広間に足を踏み入れた者は、押しつぶされるような錯覚を味わうことだろう。床、壁、天井、柱、すべてが重苦しい黒御影石で造ってあり、見る者に圧迫感を与えるからだ。陰鬱な部屋に彩りを与えるかのように、正面扉から広間最奥まで鮮やかな赤色のじゅうたんが敷いてあったが、広間の雰囲気もあって赤じゅうたんは血の川に見えた。じゅうたんの左右には、王と城に仕える者たちが食事するための長テーブルが置いてある(血の川を見ながらの食事が美味いかどうかは従者たちのみぞ知る)。テーブルは長大で、従者の数の多さがうかがい知れた。  血の川をさかのぼっていくと、王座に着く前に、四段だけの短い階段に行き当たる。王の威厳を高めるために王座を置く場所を少し高く造ることは城造りでは珍しくないが、アジ・ダハーカ城の場合、四段という数にも意味がある。アジ・ダハーカ建国の歴史と関わっているのだ。  千年前の建国当初、アジ・ダハーカはまだ王家の治世が盤石ではなく、王の命令を無視した諸侯同士の紛争や賊の略奪が絶えなかった。初代アジ・ダハーカ王ヒルデブラント・アジェルディアは、それらの無秩序を治めるために、四つの偉業を成した。まだ騎竜しか存在しなかった当時に、戦竜という新しい兵種を考案したこと。戦竜を駆使し、当時最大の反乱勢力だった竜賊たちに勝利したこと。地方領の諸侯たちと主従関係を結び、封建制を確立したこと。そして晩年、封建制をさらに発展させ、王室により多くの権限を集めることで国をより安定させたこと。  四段の階段は、その四つの偉業を象徴していた。後代のアジ・ダハーカ王たちは、王座に座るために階段を上るたび、ヒルデブラントが成した四つの偉業に想いを馳せ、そして偉大なる王の後継であることを誇りに思うのだ。  四段の階段を上った先にある王座。王座は随所に金細工をまとい、大国の王が座るにふさわしい荘厳さを放っていた。とりわけ目を引くのは、背もたれの頂部にとまっている竜の像である。竜はその王座に座る者、すなわち王を、あらゆる敵から守るように翼を広げていた。現在その威厳ある王座に座ることを許されているのは、オーヴェルベント・ドゥ=ロワン・アジェデルディア第四十二代目国王ただ一人である。  いまオーヴェルベントは、ひじ掛けに頬杖をつきながら王座に座っていた。長身で筋肉質の堂々たる体格をしていたが、黒と白が混じった髪としわが寄った広いひたいは、いくら王といえども寄る年波には勝てないことを物語っていた。年老いることで目に威厳を宿らせる指導者もいるが、オーヴェルベントの青い双眸(そうぼう)はどこかに威厳を置き忘れたかのように眼力がなかった。立派な王座と金刺しゅうがほどこされた豪華な王衣のおかげで辛うじて体面を保てている、といった印象だった。  オーヴェルベントは、階段の下でひざまずいている黒鎧の騎士から、アルブラ攻略戦の結果についての報告を受け終わった。「アルブラは完全に制圧したのだな?」 「はい」階段下の黒騎士がいった。「これよりアルブラにアジ・ダハーカの本軍を送り、前哨拠点とします」 「して、ファフニール王都シェルヴィアはどのように落とすつもりじゃ?」 「まずは歩兵団をシェルヴィア周辺に展開します。そして歩兵団の投石機と火矢でシェルヴィア防壁上の対竜バリスタを破壊。竜の脅威を排除した後、我が騎士団がシェルヴィアへ一気に攻め込む、という作戦はいかがでしょう?」 「ふむ、定石の戦術じゃな。それでよい」オーヴェルベントは満足げに長いあごひげをさする。「勝利はもう目前じゃな」  軍事国の王とは思えない発言だった。戦とは刻一刻と変化するものであり、勝敗がどうなるかは最後の最後までわからない。完全な勝利を得るまでは、けっして気を抜いてはならないのだ。  オーヴェルベントは自分が軽率な発言をしてしまったことに気づかないまま、王座の左脇に立つ大柄の騎士に顔を向けた。「これもすべてアエーシュマ歩兵隊がアルブラを陥落させてくれたおかげじゃ。そなたの娘ルシアの活躍は目覚ましいな、ギルベルトよ」 「はっ」ギルベルトは表情を変えずにいった。  ギルベルト・ツァラトゥストラ。アジ・ダハーカの全軍の頂点に立つ将軍だ。アジ・ダハーカの将軍は世襲制で、代々ツァラトゥストラ一族が務めている。ギルベルトもツァラトゥストラ家の嫡子として将軍職に就いた。とはいえ、ギルベルトは家柄のおかげで将軍になれたのだ、とあなどる者は誰一人いなかった。濃い茶色の瞳は眼光鋭く、睨まれた竜が逃げ出すほどだ。後ろに撫でつけた髪と短く刈ったあごひげは、戦場の焼け野原を連想させる濃い赤茶色をしていた。鍛え抜かれた肉体は五十歳を目前にしてもまったく衰えていない。眉間には斜めに大きな古傷があったが、それは五年前の〈深き者〉との戦いでついた傷である。顔を血で濡らしながらも一歩も退かずに戦った勇猛果敢な姿は、いまだに騎士たちの記憶に深く刻まれており、見る者に尊敬と畏怖の念を与えた。  ギルベルトは、王に娘を褒められたにもかかわらず、喜ぶ素振りをまったく見せなかった。 「相変わらずじゃな、ギルベルト」オーヴェルベントは不満げだった。「もっと娘を気にかけてやったらどうじゃ? わたしのように、子を失ってからその大切さに気づいても遅いのじゃぞ」 「肝に命じておきます」ギルベルトは無味乾燥にいった。  オーヴェルベントは片眉を上げた。ため息をつくと視線を外し、階段の下で頭を下げている黒騎士に目を移す。「カインよ。妹の功績をよくよく労うのじゃぞ」  カインと呼ばれた黒騎士が顔を上げた。  王都騎士団団長カイン・ツァラトゥストラ。ギルベルトと同じ茶色の瞳、ただしギルベルトより落ち着きに欠け、若さゆえの野心にあふれている。髪は母譲りの暗い金色だった。最近の若い騎士たちの間では長めの髪型が流行っているが、カインも流行に後れを取るまいと髪を肩まで伸ばしていた。ただ、彼の顔を見て最初に目が行くのは、髪の毛ではなく鼻だろう。高い鉤鼻が、傲岸不遜に顔の中心に座していた。 「恐れながら」カインはいった。「ルシアは自分の役目を果たしただけです。わざわざ褒める必要はございません」  オーヴェルベントはまた片眉を上げた。「情が無いのう。五年前のあの災厄によりルシアが呪われた体となってしまったからといって、邪険にしてはならん」 「オーヴェルベント様のおっしゃるとおりよぉ」甘ったるい声が広間に響く。  険悪になりかけた雰囲気を一挙にやわらげたのは、玉座の右側に立っていた女だった。妖艶、という言葉がこれほど似合う女はそういないだろう。男を魅了する大きな緑色の目。熟れた唇と、口元の小さなほくろ。ひざの裏まで伸びた長い赤髪。甘い香りを振りまくしっとりとした白い肌。膨らむところは大きく膨らんで絞るところは絞られている肉体。その肉体を隠しているのは、緋色のローブ一枚だけだった。ローブのスカートには腰までスリットが入っており、スリットからは白い太ももが大胆に見えていた。女は靴を履いていなかったが、不思議なことに足はまったく汚れていない。  女は重苦しい大広間を娼館のような雰囲気に変えるほどの色香を放ちながら、艶めかしい動作で自分の手をオーヴェルベントの手に重ねた。「五年前のあの災厄――〈灰の夜〉で愛する者を失った陛下のお気持ちは、このロゼが一番よく理解しておりますわぁ」 「おお、ロゼよ」オーヴェルベントの顔がほころんだ。「なればわたしの気持ちを代弁してくれるか?」 「はぁい、喜んでぇ」ロゼが、カインとギルベルトをそれぞれ見る。「陛下は、国の政に掛かり切りで妻や子らを愛でていなかったことをいまも後悔しておられるのぉ。もしルシアちゃんに何かあったら、次はギルベルト将軍やカイン団長が、その後悔を味わうことになるわぁ。陛下はあなたたちに自分と同じ苦しみを味あわせたくなくて、ルシアちゃんをもっと大切にしなさいと助言をしておられるのよぉ」 「さすがはロゼだ。わたしの心をよく理解しておる」  オーヴェルベントはあたりをはばかりもせずロゼの白い手を撫でた。そこにいるのは最強の軍事国の王にはふさわしくない、女に狂った好々爺(こうこうや)だった。  ロゼはごく自然な動きでオーヴェルベントから手を離す。「では陛下ぁ。カインちゃんたちは戦の指揮で忙しいでしょうし、そろそろ退出させてはいかがでしょう?」 「うむ、そうだな」オーヴェルベントは名残惜しそうにロゼの白い手を見たあと、カインにいった。「カインよ。アジ・ダハーカ軍の指揮は、引き続きそなたに執らせる。先日も申したが、この度の戦はそなたが次期将軍にふさわしいかを問う試金石でもある。わたしとギルベルト、そしてそなたに軍の指揮権を渡し統率力を試すことを提案をしたロゼを失望させぬよう、尽力せよ」 「必ずやご期待に応えてみせましょう」  カインは立ち上がると一礼し、大広間から去った。  オーヴェルベントはかたわらの将軍を見た。「ギルベルトよ」 「はっ」 「兵站の管理はそなたに任せる。後陣からカインを支援せよ」 「陛下」ギルベルトはオーヴェルベントの前に出ると、片膝をついた。「お尋ねしたいことが」 「なんだ?」 「この戦に、どれほどの意味があるのでしょうか?」 「またその話か」オーヴェルベントは眉をひそめた。「戦の大義については何度も述べているだろう。浮竜を減らさねば、人は滅ぶ」 「それが真実だとお考えですか?」 「当前だろうっ。ロゼがいっておるのだぞ!」 「まぁまぁ、陛下ぁ」ロゼが二人の間に入った。「ギルベルト将軍もまた陛下と同じく、国の心配をしておられるだけですわぁ。戦をすれば多くの血が流れ、民が苦しみますからねぇ。御二方の違いは、ギルベルト将軍は国の現在しか見ておらず、陛下は国の未来を見据えているところですぅ。国を末永く繁栄させるためには本当は何をするべきか、それを理解しておられるのは陛下の方ですわぁ」  オーヴェルベントがうなずく。「うむ。わたしの考えをよくぞ代弁してくれた」  ロゼはギルベルトを見た。「ギルベルト将軍にも陛下の展望をわかっていただますよう、このロゼがいま一度説明させてもらいますわぁ」 「⋯⋯⋯⋯」 「竜が空と飛んだりブレスを吐いたりできるのは、大気に満ちた〈エーテル〉という人間には不可知の力のおかげであることはご存知ですよねぇ。竜は鳥のように風を切って飛んでいるのではなく、魚が水に浮くようにエーテルの中を浮かんでいるのですぅ。それゆえ浮竜を含めてすべて竜は、翼を休めなくても半永久的に空に浮かぶことができるのですよぉ」 「そのくらい知っている」 「ですがぁ、いまエーテルの力が薄れてきています。それは竜の数が増えたことと、文明化した人々が生活に竜の力を多用するようになったことが原因。エーテルの力の発生より、消費が上回っているのです。このままではいずれエーテルは枯渇し、浮竜は飛ぶことができなくなり、すべての国は雲海の下を埋め尽くす〈混沌〉に沈んでしまいます。そのような悲劇が起きる前に、他の浮竜を落としてエーテルの消費を減らさないと駄目なのですぅ。  理論的に考えて、この大空で最大の浮竜であるアジ・ダハーカが残ったほうがより多くの人間が助かります。それゆえ陛下はアジ・ダハーカ以外の浮竜を落としているのですぅ。もちろん、他国の人間たちを虐殺しているわけではありません。浮竜を失った人々は、本人が望めば、アジ・ダハーカに移住することを許されていますぅ」  ギルベルトがロゼを睨む。「わたしは竜とともに飛んでいるとき、エーテルが弱まっていると感じたことなどないぞ」 「エーテルの希薄化はまだ弱く、竜に影響が出るほどではないからです。魔術師のように、エーテルを使った緻密な作業を行う者でなければ気づけないでしょう」ロゼが白い脚を交差させ、ほほ笑む。「まだエーテルの減衰を疑うというのであれば、また実験をしてそれを証明して見せましょうかぁ?」 「結構だ」ギルベルトは眉間にしわを寄せた。  ギルベルトは、エーテルの減衰を証明する実験をすでに何度も見せられていた。数百年前の文献に記されているエーテルの測量試験を再現し、現在の数値が昔の数値より低いことを見せる、というたぐいのものだ。当初はエーテルが減衰しているという話に懐疑的だったオーヴェルベントも、何度も実験を見せられるうちに、ロゼの言葉を信じるようになった。 「実験をする必要がないということは、納得していただけたということですねぇ」ロゼは顔をオーヴェルベントに向けると、手を伸ばしてオーヴェルベントのひざをさすった。甘える声を出す。「ギルベルト将軍に陛下のご意思をお伝えしましたわぁ。このロゼは陛下のお役に立てましたかぁ?」 「うむ。よくやったぞ、ロゼ」オーヴェルベントはロゼの白い手をさすりながら顔をほころばせた。  五年前、一国が滅びてもおかしくはない大災厄である灰の夜を退けてアジ・ダハーカを守ったという偉業から、白夜のオーヴェルベントの異名を付けられた英雄の面影は、いまのオーヴェルベントにはまったくなかった。王座に座っているのは自我のない傀儡の王だった。
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