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 ルシアの生家は、ウールゼルヴの尾方地区にあった。竜港からそこに行くまでには、人目がある通りを通らなければならない。  棺桶を肩に乗せて歩くルシアを、道行く人々は奇異の目で見た。曲がり角の向こうから現れた古靴売りは、ルシアの姿を見て驚いた拍子に背負っていた麻袋を取り落とし、回収して来た古靴を道端にぶちまけた。  棺桶は目立ちすぎるな、棺桶に入れたのは失敗だったか?   だが、いまさらどうにもならないので、ルシアはそのまま進んだ。  ルシアはパン屋の前を通った。パンの焼ける香ばしい匂いが漂う。そのとき肩に乗せた棺の中から小動物の鳴き声のような音が聞こえた。腹が鳴る音だ。  腹が空いているらしいな。家に行く前に食料を買うべきか。  ルシアはパン屋をちらりと見たが、その店には入らなかった。一口にパン屋といっても、商売の手法は千差万別だ。パン屋の中には、小麦のパンと称していながら、小麦を精白したときに出るふすまを混ぜて目方を誤魔化したいんちきなパンを売る店もある。食料は信頼できる店以外では買わないのが、買い物の鉄則だった。  信頼できる店で、ここから一番近い食料品店といえば⋯⋯。  ルシアは通りを右に折れて細い道に入り、建物群の奥へ進んだ。目立たない場所に、一軒の店が建っていた。店の前には調理鍋と豚の骨がぶら下がっており、それらはこの店が調理した肉を売る惣菜店であることを示していた(市民たちの中には文字を読めない者も多いので、店が文字看板をぶら下げることはまずない)。店の中からは、骨髄スープのいい香りが漂っている。  ルシアは棺桶を店の前に置いた。食事を買ってくる、と少女にいい残して、店の中に入る。  狭い店の調理場に、女が立っていた。「いらっしゃい、ルシア様」 「久しぶりだ、ハンナ」  ルシアと女店主のハンナは顔見知りだった。というのも、ハンナの夫は元アエーシュマ歩兵隊の隊員だったからだ。その夫はティアマトでの戦いで、ティアマトの曲刀使いと戦い命を落とした。  アエーシュマ歩兵隊には、戦死した仲間の家族は生き残った仲間が支援する、という伝統があった。そのためルシアも、やもめになったハンナを路頭に迷わせまいと、肉料理を買うときはなるべくハンナの店を訪れるようにしていた。それに元隊員の家族が経営する店ならば、羊肉のシチューに猫の肉を混ぜられる心配がない。  肉の切り分け中だったハンナは調理の手を止め、手に持っていた骨断ち包丁を振ってルシアを歓迎した。「さ、どうぞどうぞ」  ハンナは大女で、太い腕と胴回りをしていた。歳は四十に近いはずだが肌はつやつやと脂ぎっていて、ラードで化粧しているのではないかと思うほどだった。表情は未亡人とは思えないほど活き活きとしている(ルシアが子供のころによく読んだ騎士道物語では、夫を失った妻は例外なく嘆き悲しみやせ衰えていたが、現実ではそうでもないらしい)。  ハンナはルシアの軍服姿を見た。「ファフニールの町の攻略に向かったて聞いてましたけど、もう帰ってきたんですか?」 「ああ。城塞都市でもない、ただの宿場町だ。攻略に何日もかかったりしないさ」 「うちの主人もルシア様の勝利を喜んでますよ、きっと」 「そうだとうれしい」 「ところで」ハンナは店の窓から見える棺桶に目を向けた。「その棺桶の中身、ひょっとしてラブリスさんですか?」 「いや、違う。ちょっと訳ありの死体でな。郊外に埋葬してやろうと思うのだ」 「ふぅん、訳ありですか。深くはききませんけど」ハンナはそういいつつも、興味津々な顔をしていた。「でも、ラブリスさんじゃなくてよかったですよ。ラブリスさんにはツケがありますからね」 「ラブリスがこの店にツケを?」 「いえ、この前に酒場で会ったとき、酒をおごってあげたんですよ」 「ふむ」ルシアはうなずく。ラブリスは国から重宝されている精鋭部隊の副長なのだから、懐はかなり暖かいはずだ。酒代くらい持っている。それでも誰かにおごってもらうのは、人情の繋がりを切らしたくないからだろう。貨幣制度がいまいち浸透しておらず、いまでも物々交換が行われている僻地出身のラブリスらしい考えだった。「それなら次に酒場で会ったときは、利子をつけて返してもらうといい」 「そのつもりです」  ハンナはくっくと笑うと、調理に戻った。骨断ち包丁を豪快に振り下ろし、牛の太い大腿骨を真っ二つにする。  ルシアは、この女店主のほうがアエーシュマ歩兵隊に入るべきだったのではないかと思いながら、店の中の品物を見回した。ゆでた牛肉や塩漬け羊肉、数十種類ものソーセージなどが豊富に並んでいる。ルシアはソーセージを数種類を買った。 「まいど」ハンナがいう。「四ゼルです」  ルシアは軍服の懐から二枚の銅貨を取りだした。戦中でも懐に貨幣を持っていたのは、ある種のまじないだった。世間では、死んだ者の霊魂は罪の岐路という場所に向かうといわれている。その岐路には赤衣の獄史たちがおり、善人の魂は空より高き処という楽園へ運び上げ、罪人の魂は逃げられないように脚を斬り落としたあと地の底へ突き落すのだそうだ。ただし獄史に金を渡せば、脚を斬り落とすことだけは免除してもらえるという。ルシアは空より高き処や地の底が本当にあるのかは知らなかったが、アエーシュマ歩兵隊は皆お守り感覚で小銭を持っていたので、ルシアもそれにならっていた。  今回もこの金を獄吏へ渡さずに済んだな、とルシアは思いながらハンナに金を渡した。  ルシアは食料が入った包みを受け取ると、ハンナの店を出た。左手で包みを持ち、右手で棺桶を担ぎ上げる。  そういえば、近くにはオーランドのパン屋があったな。食事が肉だけでは少女がかわいそうだし、パン屋にも寄るか。  ルシアは複雑な路地を通って、パン屋に入った。その店の主人オーランドは、ヤマタノオロチでの戦で右腕の腱を切られてもう戦えなくなったために退役した、元アエーシュマ歩兵隊員だった。  オーランドはルシアと棺桶を見比べると、渋面を作った。「その棺桶の中身、ラブリスさんですかい? まいったな、この前酒場で会ったとき酒をおごってあげて、そのツケをまだ返してもらってないんですよ」 「⋯⋯あいつは酒の飲み過ぎで本当に酒代がないだけのではないか」ルシアはうなだれた。
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