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 アジ・ダハーカ王城の裏手にある小さな霊園。  霊園には、白い御影石でできた墓が整然と並んでいた。墓石は特徴的な形をしている。逆三角形の真下から一本の線が伸びた形。それが、アジ・ダハーカの国教であり世界宗教でもある教え――ファテル教の印章だった。ファテル教典によると、その印は女性の子宮を象徴しており、そしてそれはファテル教の開祖であるファティアが女性だったことに由来しているという。  この霊園に眠ることが許されているのは、王族、将軍家、王宮専属の聖職者だけだった。とはいえ、地面に眠っているのが支配階級だろうと平民だろうと、夜の墓場が不気味なことにはかわりない。墓守ですら詰所に閉じこもり、おいそれとは近寄らなかった。  本来は無人であるはずの夜の霊園を、一人の男が歩いていた。闇夜でも光るほど鋭い眼光を持つその男は、将軍ギルベルトだった。  ギルベルトは黒い軍服に身を包み、右手には色鮮やかな花束を握っていた。花束の花は、赤いカーネーションである。  とある墓の前まで来ると、ギルベルトは足を止めた。墓には故人の名と没年号が刻んである。竜暦九九四年アエリア・グレイテル・ツァラトゥストラ。  ギルベルトはアエリアの墓の前にカーネーションの花束を置いた。両目を閉じて黙祷を捧げる。  しばらく静寂が続いたとき、風が吹いた。城の敷地内は城壁で囲まれているため普通は風は吹かないのだが、城壁の上に強い風が吹くと、その風に吸い上げられるようにして城の敷地内にも風が吹くことがある。  墓地に生じた穏やかなつむじ風がカーネーションを撫で、一枚の花弁を巻き上げた。赤い花弁が宙を舞う。  暗闇から手が伸び、宙で踊っていた花弁をつかんだ。 「カーネーションの匂いはあまり好きではありませぬ」花びらをつかんだ男が、大きな鷲鼻で花びらの匂いを嗅いだ。「癖がない。わたしには少々物足りなく感じます」  ギルベルトは目を開けた。「夜の墓場に何の用だ、カイン?」  ギルベルトの背後にわだかまっている闇の中から、カインが姿を現した。手につかんだ赤い花びらを風の中に放つ。花は闇の中に溶けていった。 「父上と同じく墓参りです。我が母エレクトラへ、戦の報告に。先ほど我が騎士隊がアルブラを完全に手中に治めた、と」 「戦は生者の事情だ。死人は戦になど興味はない」 「そうかもしれませぬな」カインはアエリアの墓に目を向けた。「父上はなぜこのような真夜中にアエリア殿の墓前に? いえ、それよりもなぜアエリア殿の墓にだけ花を捧げ、我が母上の墓には何も捧げないのです? 側室の墓にだけ花を添えるなど、正室である母上への愚弄ともとれます」 「口が過ぎるぞ、カイン」ギルベルトがカインへ振り向く。「今日は霧の月の十二日、他国では死者の日だ。それゆえアエリアの墓前に花を捧げたまでだ」  霧の月十二日はファテル教の教主ファティアが現世から去った日とされており、ファテル教はその日を死者の日と定めている。死者の日には故人を懐かしみ、墓に花を添えるのが習わしだ。が、それはアジ・ダハーカ以外の国の話である。宗教の影響力よりも国王崇拝のほうが強いアジ・ダハーカでは特別に、初代王ヒルデブラントが崩御した日である嵐の月の五日が死者の日とされていた。  アエリアは異国人であり、アエリアの祖国の慣習では今日が死者の日だ。そのためアエリアの墓にだけ花束を捧げた、とギルベルトはいいたいのだ。  妾の墓前に花を捧げること自体、我が母エレクトラへの冒涜なのだ、とカインは思った。しかし表情にはけっして出さない。「アエリア殿の祖国が死者の日だったとは、このカイン、思い至りませんでした。祖国のことまで気を遣ってもらえ、アエリア殿もさぞお喜びでしょう」  ギルベルトは、何百年も形を保ち続けている一枚岩のような無表情でカインを見すえた後、何もいわずに霊園から去った。  ギルベルトが消えると、カインは母譲りの暗い色の金髪を掻きあげて鼻を鳴らした。 「ふん。故郷が死者の日だから、だと? 見え透いた嘘を。どうせ妾ばかりを愛し、我が母をないがしろにしているだけだろう」  カインはアエリアの墓前に添えられた花を見た。 「この花は確か、カーネーションか」死者の日に捧げる花は、国花であるのが通例だ。アジ・ダハーカではバラ、ヤマタノオロチではキクというように。「カーネーションを国花としているのはどこの国だったか⋯⋯」  カインもまた、アエリアがアジ・ダハーカ人ではないことは見た目から気づいていたが、祖国がどこなのかまでは知らなかった。ギルベルトにアエリアの素性について一度尋ねたことがあったが、一枚岩は何も答えてくれなかった。  アエリアが死んだことで長らく忘れていた疑問が、いま再びカインの胸中に浮かび上がってきた。カーネーションが国花である国が、アエリアの祖国なのだ。だが(貴婦人に花束を贈るとき以外は)花には無関心なカインは、他国の国花については知らなかった。 「ふんっ、どうせ死んだ人間だ。いまさら素性を知ったところで何になる」  カインはカーネーションが添えられた墓に背を向けると、自身の母の墓へ向かった。
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