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 風が、分厚い雲の向こうから血の臭いを運んでくる。  雲の中に、小さな生物が飛ぶ姿が映った。生き物は二枚の翼を羽ばたかせていた。鳥ではない。身体を覆う黒い鱗、縦に割れた瞳孔を持つ紫色の眼、角、鉤爪、尻尾――その生物は、一匹の竜だった。  ワシほどの体格の竜は、首を巡らせて周囲を見回した。ほの暗い雲のもやの奥に、大きな黒い影を見つける。竜は左右の翼を伸ばし、黒い影へ滑空した。目標に近づいた竜は、鉤爪を前に突き出す。  雲のもやの奥から、黒い籠手をまとった腕が伸びた。  竜は鉤爪で黒い腕につかまった。翼をたたむと、腕の付け根のほうへ目を向ける。金属鎧を全身にまとった人間。鎧の色は、竜と同じ黒色だった。  黒鎧の人間は、竜がとまった左腕を懐に寄せると、竜の脚を調べた。左の足首に、赤い布が巻き付けてあった。黒鎧の人間は右手で竜の脚から赤い布を外した。布を兜の前に持ち上げると、顔を覆うバイザーの覗き穴の奥から、赤い布を見つめる。 「赤か」黒鎧の戦士が、ジョロウグモのレリーフが施されたバイザーの下で、つぶやいた。女の声だった。  ジョロウグモの戦士の背後には、別の黒鎧の戦士が控えていた。その戦士は カラスを象った兜をかぶっている。カラスの戦士はジョロウグモの戦士に一歩近づくと、口を開いた。「ラブリス副長の準備は整った、ということですね?」 「ああ」ジョロウグモの戦士は赤い布を手放した。布は風に流れ、雲の向こうに消える。「戦いの準備と、死ぬ覚悟をしろ」  カラスの戦士はうなずくと振り返り、彼のさらに背後に控えていた二十人ほどの黒鎧の戦士たちに、確認の視線を送った。戦士たちは手に持つ槍を握りしめて、カラスの戦士の視線に応える。  カラスの戦士は、ジョロウグモの戦士に向き直った。「両方とも、とっくにできてます」 「ではいざ戦場へ」ジョロウグモの戦士は腰に携えていた黒い長剣を抜いた。「昇れ」  ジョロウグモの戦士の足元に座っていた黒いローブをまとった御者姿の男が、両手に握っている手綱を動かした。  黒鎧の戦士たちの足元が揺れた。戦士たちごと、足場が雲の上へと昇り始める。いま戦士たちが足を着けている場所は、土の地面ではなかった。黒い鱗に覆われた足場。それは大型の竜の背だった。  巨躯の黒竜が、人間の戦士たちを背に載せたまま、ゆっくりと上昇していく。  ジョロウグモの戦士は顔を上に向けた。雲越しに、ぼんやりとした太陽が見えた。竜が昇るにつれて、太陽の輪郭がはっきりしていく。  ジョロウグモのバイザーの覗き穴に強い陽光が差し込んだ。直後、光を浴びたジョロウグモの戦士のほおが浅く焦げた。 「この呪われた体が役立つ時が、また来たか。死と隣り合わせの戦場でしか生きる意義を見いだせないとは、皮肉な話だ」  ジョロウグモの戦士は太陽から顔を背けた。
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