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「右方向に敵竜!」ヘビの兜をかぶった黒鎧の兵士が叫ぶ。  獅子を象った兜をかぶった大柄の戦士が空を仰いだ。白銀の鱗を持つ竜が急降下して来る。竜の背に乗る銀色の鎧をまとった兵士は、槍の穂先を眼下にいる黒鎧の兵士たちに向けていた。 「うるせぇ騎士だぜ」獅子の戦士が舌打ちした。「弓兵! あの女の髪飾りみてぇにキラキラした生っちょろい鎧をぶち抜いてやれ!」  黒鎧の弓兵数人がクロスボウを白銀の竜に向け、いっせいに引き金を引いた。無数のボルトが空気を切り裂いて飛ぶ。  白銀の騎士は竜の角に繋いである手綱を引いた。白銀の竜は体を翻して、ボルトを避ける。が、すべてはかわしきれなかった。一本のボルトが竜の右肩に突き刺さった。白銀の鱗が砕け、血が噴き出る。  クロスボウのボルトに怯んだ竜は、突撃の勢いを失った。銀鎧の騎士は黒鎧の歩兵たちへ突撃を仕掛けるのを断念し、飛行軌道を変えて歩兵部隊から離れる。 「ラブリス副長、ファフニールの騎士を追い払いましたっ」若い弓兵が歓声を上げた。 「喜ぶのは戦いが終わってからにしろ、新入り」獅子を象ったバイザーの下で、ラブリスがいった。「次弾装填を急げ。反対側からも羽虫が来るぜ!」  歩兵隊の左方から、別の白銀の騎士が滑空して来る。 「ボルトの装填、間に合いません!」弓兵部隊の小隊長が、クロスボウの弦を引く滑車を回しながら叫んだ。 「ちっ。槍隊、隊伍を組め!」  槍と盾を持った黒鎧の歩兵たちが、素早く一列に並んだ。左手の盾で、自身の左半身と左どなりの仲間の右半身を守ると、盾と盾の間から槍を突き出し、槍ぶすまを作る。  ラブリス自身も槍ぶすまに加わった。盾の壁の右端につく。右端の立ち位置は、右半身に仲間の盾の守りを得られない。すなわちもっとも危険な役回りであり、もっとも経験と度胸がある者がつく位置だった。  ラブリスは愛用の十字槍を構えると、仲間たちに叫んだ。「ぶっとばされるんじゃねぇぞ! てめぇがおっ死ぬのは勝手だが、となりの仲間は死んでも守れ!」  銀色の竜が、黒鎧の歩兵たちの隊列へ突っ込んだ。鈍い音が響く。真正面に突撃を喰らった槍兵たちが後ろにずり下がり、土の地面に跡を残した。が、隊列は崩れなかった。  槍ぶすまを崩すことに失敗した騎士は、歩兵たちの槍の穂先についている返し刃に引っ掛けられて竜の上から引きずり落とされる前に、上昇して逃げた。槍ぶすまにぶつかったときにできた竜の傷口から血が滴る。  騎士は眼下の歩兵たちを睨んだ。「おのれ、アジ・ダハーカの黒ムカデどもめ」 「ムカデをなめると痛い目を見るぜ、ファフニールのハゲタカ野郎」ラブリスが笑う。「ムカデってぇのは毒を持ってるからな」  突然、白銀の竜が体をけいれんさせた。緑色の眼がぐるりと上を向く。  騎士が自分の竜の異変に気づいた。「これは⋯⋯槍の刃に毒が塗ってあったのか? 卑怯な!」 「戦場じゃ、卑怯って言葉は敗者の泣き言だぜ」  竜の体から力が抜け、騎士もろとも落下していく。 「まずいっ」騎士が下方を見やる。「この下は⋯⋯」  いま騎士が飛んでいる場所は、ラブリスたちが立っている足場のだった。 「おっと、こいつはご愁傷さまだ」ラブリスが肩をすくめる。  白銀の騎士と竜は、足場の外側に落ちていった。ラブリスは足場のふちから身を乗り出し、下方を覗いた。ラブリスの視界に、真っ白な世界が飛び込む。果てしなくどこまでも広がる雲の海――雲海だ。  広大な雲の海のただ中に、落ちて行く騎士の姿が見えた。騎士の姿はみるみる小さくなり、そして雲海に消えた。  ラブリスはそのまま自分も雲海に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥った。脚に力を入れて踏ん張り、足場のふちから離れる。  ラブリスのとなりで、ラブリスと同様に雲海を見下ろしていた若い弓兵がいった。「生きたまま雲海に落ちるなんて、憐れな死に方ですね」  雲海に落ちた者は、死よりも辛い終わりを味わう、といわれている。その話が本当かどうかはわからなかったが、雲海から帰ってきた者が一人もいないことだけは事実だった。  ラブリスは雲海から目を離した。「敵に情けをかけるんじゃねぇ、自分が雲海の下に落ちる羽目になりたくないんならな」 「それはわかってはいるのですが⋯⋯」 「戦場では余計なことは考えるな。敵をぶった斬ることだけを考えろ」 「祖国アジ・ダハーカの名誉のために、ですか?」 「へっ。名誉だとか偉大なる正義だとかは、騎士どもに任せておけばいい。俺たち歩兵は、戦友と偉大なる報奨金のために戦えばいいのさ」ラブリスは顔を上に向けた。「そもそもは、名誉なんざ気にするたまじゃねぇさ」  ラブリスが見上げる先――そこにあるのは空ではなかった。災禍をもたらす嵐雲のように天を覆う、途方もなく巨大な黒竜の腹である。その竜が、ラブリスたちの祖国だった。  アジ・ダカーハ。それは国の名前であり、広大な背に一つの国を載せて大空に浮かぶ巨竜の名前でもある。右の翼は西の雲平線の向こうまで、左の翼は東の雲平線の向こうまで伸び、あたり一帯を黒く染め上げていた。尻尾は長大過ぎるせいで大気に霞み、はっきりと見ることはできない。長い首の先にある頭部には、紫色の七つの眼が並び、その眼は大空に睨みを利かせていた。ひたいから突き出している鋭い一本角は、神が振るう大剣のようだ。実際、アジ・ダハーカを含め、巨体に国を乗せる竜は浮竜と呼ばれ、神に近しい存在として人々から敬われる。とりわけ、巨大な角の剣を振りかざすアジ・ダハーカは神々の中でも苛烈な破壊神を想起させた。  そしてその印象は間違ってはいなかった。いま浮竜アジ・ダハーカはその力で、とある存在を破壊しようとしていた。とある存在とは、アジ・ダハーカの下方に浮かんでいるもう一体の竜――銀色の浮竜ファフニールである。  アジ・ダハーカはファフニールに戦を仕掛けていた。
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