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青い空に、弦楽の音が響いている。
ファムはエーデルヴァイスの上に座り、リュートをひいていた。曲は、ゴルイニシチェの子守唄である。ファムの後ろでは、ルシアがファムの腰を抱きながらリュートの音に耳を傾けていた。ファムが奏でるリュートの音は、音階が安定していなかったし、弦の位置を確かめるためにときどき音が止まったりする。しかしそれでも初めてリュートを弾いた二か月前に比べれば、めざましく上達していた。
ファムの演奏を聴いていたのは、ルシアだけではなかった。チキやエリザ、セフィたちもリュートに聴き入っていた。クロウはファムに背を向けて太刀に油を引いていたが、ファムが変な音を出したときにふっと笑ったところを見るに、ちゃんとリュートにも耳を傾けているらしい(驚いたことに、アイアンセイバーもまた目を細めて心地よさそうにリュートの音を聴いていた。ゴルイニシチェの竜院にいたときによく聴いていたアエリアのリュート演奏を思い出しているのかもしれない)。どうしても退屈になりがちな長旅では、音楽は貴重な娯楽の一つだった。
高音がゆっくりとフェードアウトし、曲は終了した。ファムが、リサイタルの終わりに演奏者たちそうするように、ぺこりと頭を下げる。エリザが拍手した。チキはしっぽを、セフィは翼をぱたぱたと振る。
「だいぶうまくなったな」ルシアがファムの頭を撫でた。
「⋯⋯⋯⋯」ファムは心地よさそうに目を細める。
「だが一つ⋯⋯。リュートを渡してくれないか、ファム?」
「⋯⋯⋯⋯?」ファムが首をかしげながら、リュートをルシアに丁寧に差し出した。
ルシアはリュートを受け取ると、自分でも軽く弾いてみた。きれいな音色だったが、ほんのわずかに音階がずれていた。「やはり、わたしの調弦が少し甘かったな。湿気が強いのか」ルシアが前方を見やる。「嵐が近いな」
「もうすぐナジェル空域だからな」曲の間もずっと前だけを見据えていたディベオンが、口を開いた。
「ナジェル空域⋯⋯。別名、血濡れた嵐の空、か」
「血濡れた?」エリザが首をかしげる。「不気味な名前ですわね」
「エリザはゴルイニシチェにいたとき、アーヴィンからナジェル空域について聞かされなかったのか?」
「アーヴィン叔父様は、浮竜の外のことについて教えてしまうと、わたくしが外の世界に憧れを持ってしまって、かえって辛い思いをすると思っておりましたわ。ですから空域に関してはほとんど教えてはくれませんでしたの」
「なるほどな」
「それで、血濡れた嵐の空、といいますのは?」
「血濡れた嵐の空、ナジェル空域。その領域を飛んだ騎士団は必ず消息を絶つ、骨だけの浮竜が数多の亡霊を乗せて飛んでいる、などというような怪談めいた話が絶えない空域だ」
「まぁ、おもしろそうですわ」エリザが手を合わせて喜ぶ。彼女はそういうたぐいの話は好きだった。
「期待しているところ悪いが、それらは所詮、根も葉もない作り話だ」
「それは残念ですわ」エリザはがっくりと肩を落とした。
「しかしそのような噂が立つのもわかるほど不気味な場所ではある」
エリザはまたちょっと期待する顔をする。
おもしろい、とルシアはエリザの反応を楽しみながら、話を続けた。「ナジェル空域は一年中巨大な嵐で荒れている。竜が飛ぶのには向かない。ゆえに、空域の探索はほとんど進んでいない。空域に何があるのか不確かなことが、不気味な噂ができる原因の一つだ」
「それが、嵐の空、の由来ですのね。血濡れた、という言葉のほうは?」
「それは⋯⋯」ルシアは竜の進行方向を見た。「直接見たほうが早いだろう」
エリザも前方に目を向ける。雲平線のあたりが、薄い朱色に染まっていた。
「夕焼け?」エリザがいう。「いえ、まだそんな時間ではないですわね」
「方角も違う。わたしたちが向いてるのは南西だ」ルシアがいった。「あそこがナジェル空域。血濡れた嵐の空、だ」
雲平線の向こうから、赤く巨大な入道雲が顔を見せ始めた。鬱血したコブのような雲は、その中を幽霊浮竜が飛んでいたとしても不思議ではないほど気味が悪い。そんな雲が無数に折り重なり、遠目にもわかるほど激しく蠢いていた。胎動する雲の中で、雷光が瞬く。稲妻もまた赤く、コブの中で脈打つ血管のように見えた。
「あらあらぁ、本当に不気味ですわ」エリザは瞳を輝かせていた。「あの赤い色は、その呼び名のとおり、血ですの?」
「どうやらそうではないらしい」ルシアはいった。「以前、アジ・ダハーカの魔術師があの雲を調べたそうだが、雲の水分を採取して乾燥させてみたところ、残ったのは土だったという」
「土?」
「赤土だよ」ディベオンが口を開いた。「ナジェル空域の真下の大地には、巨大な山脈がある、浮竜よりもでっけぇ山脈がな。んでもって、山脈の手前には赤土の荒野があるんだ」
エリザが首をかしげる。「それでなぜ、雲が赤くなりますの?」
「赤土の荒野の上を通った強風が、土ぼこりを舞い上げる。風は赤土をはらみながら、山脈にぶつかって上昇する。雲海の上に押し上げられた赤土が、ここら一帯の雲を赤く染めるんだ」
「まぁ⋯⋯そうですの」不気味な雲のタネがわかってしまい、エリザは少し残念そうだった。
「ということは」クロウがきく。「嵐が起こるのも、その風が原因なのか?」
「ああ」とディベオン。「下から上昇して来る風は、山脈にぶつかったせいで動きが不安定になってるから、上空の雲を掻き回して渦を作り、それが嵐になるんだ」
「つまり、すべては風が原因か。風にまつわるものが厄介なのは、自然現象も人も同じだな」
「その人というのは、わたしのことではないだろうな?」ルシアがいう。
「さあな」クロウは顔をそむけた。
「でもさ」チキが口を開く。「そんな空域に入って、大丈夫なの? 混沌の下から運ばれてくる土なんて、体に悪そう」
ディベオンが答える。「混沌のエーテルが歪めるのは、生物かエーテルで生成された物質だけだ。俺とか、ゴルイニシチェの泥沼みてぇにな。ナジェル空域の雲に含まれてる赤土はただの鉱物だから、混沌の影響は受けてねぇ」
「ふぅん。あいかわらず回りくどい説明だけど、つまり問題はないってことだよね?」
「ああ。土の粒を吸い込まねぇように口を布か何かで覆っときゃ、心配ねぇ。それより気をつけなきゃならねぇのは、雷だ」ディベオンはルシアのほうを見る。「ルシアはレガリアの鎧があるから雷に耐えられるが、エーデルヴァイスは無理だ」
「むっ」ルシアがエーデルヴァイスの背に触れる。「それではナジェル空域に灰の夜を召喚しても、原罪のイデアを取りに入れないではないか」
「安心しろよ。聡明なディベオンさんは、ちゃんと準備してらぁ」
ディベオンはレギンレイヴの鞍に備え付けてある革袋から、手のひら大の茶色い合切袋を取り出した。虫に運ばせてルシアに渡す。ルシアは合切袋を受け取った。
ルシアが袋を見る。「何だこれは?」
「開けてみな」
ルシアは袋の口を開けた。中には、スモモほどの大きさの黄色いガラス玉のようなものが入っていた。
「これは?」ルシアがガラス玉を取り出そうとしたとき、ルシアの指先に鋭い痛みが走った。ルシアはガラス玉から手を離し、顔をしかめてディベオンを見る。「痛いぞ」
「雷竜の胆汁を固めて作った、雷のドラグーンだよ」
アルクが声をあげる。「あ、リヴァイアサンで作ってたの、これかぁ」
ルシアは合切袋の口を閉じた。「雷雲に入るのに、なぜわたしまで雷を持つ必要がある?」
「同じ属性の雷と雷は反発すんだよ。同じ属性の磁石同士が弾き合うみてぇにな」とディベオン。「その雷玉を持ってりゃ、お前とエーデルヴァイスの体は弱い雷の力をまとうから、嵐の雷は近づいてこなくなる」
「なるほど、な」ルシアは袋の上から雷玉を撫でた。
「つっても、魔術師じゃないお前でも扱えるように効力は弱めにしてあるから、過信はすんなよ。避雷針みてぇに尖ったもんを突き立てりゃ、雷は落ちまうぜ」
「わかった」ルシアは小袋を懐にしまった。「さすがは狡猾なディベオンだ」
「聡明っていえ、聡明って」とディベオン。「あと、副作用には気をつけろ」
「副作用?」
そのとき、セフィがくすりと笑った。
ルシアがセフィを見る。「どうした、セフィ?」
「ご⋯⋯ごめんなさい」セフィは笑いを噛みころしていた。「ルシア、髪が⋯⋯」
「髪?」
ルシアはフードの後ろから出している自身の髪に触れた。長い白髪が、クジャクの羽のように派手に逆立っていた。気づけば、エーデルヴァイスの羽毛も立ち上がり、エーデルヴァイスは綿の塊のようになっている。
ルシアは髪を押さえた。「⋯⋯なんだ?」
「そいつが副作用さ」ディベオンが口の端をにやりと吊り上げた。「悪いが我慢してくれよ、毛玉姫」
チキがヨミホムラの上で笑い転げた。エリザまでもが口を押さえて笑っている。
ルシアは後ろ髪が浮かないように、フードの中に髪をしまい込んだ。「⋯⋯早く行こう、エーデルヴァイス」
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