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赤い嵐雲の周囲には、人を乗せた浮竜はもちろん、野竜や鳥すらもいなかった。何かの拍子で嵐に巻き込まれれば、稲妻に撃たれて雲海の下へ落ちるからだ(雷竜ならば雷撃には耐えられるかもしれないが、鳥がいない空域では食糧がままならず、どちらにしても生きてはいけない)。血濡れた嵐の空には生命がうみだす音は一切なく、嵐の吹き荒ぶ音と雷鳴だけがこだましていた。
絶え間ない雷の音を聞きながら、ルシアたちは赤い雲の前まで来た。遠目から見たときは不気味だった血の雲も、近くで見ると、ほんのりと赤いだけのただの雲だった。
ルシアは、エーデルヴァイスに同乗せていたファムに、いった。「君は嵐の外で待っていてくれ。それと、聖骸を運んで来てくれると助かる」
「⋯⋯⋯⋯」
ファムはうなずくと、金色の光をまといふわりと宙に浮かんだ。レギンレイヴのところまで行き、竜話の巫女の聖骸をくるんだ青い布包みを持つと、ルシアのところへ運ぶ。
ルシアは聖骸を受け取った。「ありがとう」
ルシアは聖骸をエーデルヴァイスの鞍にゆわえつけようとしたが、エーデルヴァイスの背は狭いため、聖骸が置く場所がなかった。そこで旅の物資やリュートが入った革鞄を取り外して空き場所を作り、そこに聖骸を据えた。
ルシアは外した鞄やリュートをファムへ差し出す。「ファム。すまないが、わたしが嵐の中から戻って来るまで、荷物とリュートを持っていてくれないか? リュートを雨水に濡らしたくはないしな」
「⋯⋯⋯⋯っ」ファムはルシアから革鞄とリュートを受け取った。
次の瞬間、ルシアの眼前の赤い雲が渦を巻き、渦の中から灰色の触手が飛び出した。灰の夜。
ファムはとっさに身を翻し、灰の夜の触手をかわした。クロウたちも素早く竜を退ける。
「あいたっ」レギンレイヴが急に動いたせいで舌を噛んでしまったアルクが、いった。「きゅ、急に灰の夜を召喚するなよっ。びっくりするじゃんか、ルシア!」
「いや、わたしはまだ呼んでいない」ルシアは赤い雲の渦を見つめる。「まさか⋯⋯」
渦の中から、無邪気な笑い声が聞こえた。「いたずら成功です」
赤い雲の中に、黒い影が滲んだ。影は雲を抜け出し、その姿を現す。漆黒の金属竜と、その上に座る白髪の少女。
ルシアは目を細めた。「――リリア」
「びっくりしましたか、お姉さま?」リリアは紫色の竜眼でルシアを見つめる。「リリアのほうが一足先に着いたので、雲に隠れて待ってたんです」
リリアは左顔を覆う仮面に手を当てて、笑った。
「あの子がリリアですの?」エリザがいう。「あんな子供が聖王だなんて⋯⋯」
リリアはエリザに目を移すと、白い聖衣のすそをちょんと摘まみ上げた。「以後お見知りおきを、ゴルイニシチェの皇帝。⋯⋯まぁ、浮竜が無くなったんじゃ、肩書だけの皇帝ですけど」
「ゴルイニシチェはまだ滅んでおりせんわ。ルシアとともに大地を創り出したら、そこに新たなゴルイニシチェを建国するのです」
「そんなの無理です。だって、大地なんて、リリアが創らせないんですから」リリアが背後の雲を見やる。「ねっ、ロゼ様」
雲の中から、スカイマーメイドに乗ったロゼが出てきた。ロゼは空中庭園のときと同じく、鞍を使わずに脚をそろえて横乗りしている。
ロゼは脚を組むと、ルシアを見た。「リリア陛下のおっしゃるとおりよぉ。わたしたちは一度見捨てられた大地なんかじゃなく、新しい理想郷を創造するのぉ。強き者たちの世界をねぇ」
「はい。楽園を創るんです」
二人の会話には、妙なずれがあった。リリアもロゼも、そのずれについてはあえて無視しているように見えた。
ルシアが、リリアとロゼを見据える。「他の使徒らはどこだ? 雲に隠れているのか?」
「来てるのはわたしたちだけよぉ」ロゼがいった。「他の使徒たちはアジ・ダハーカでお留守番」
「⋯⋯⋯⋯」ルシアはロゼの言葉を信じず、あたりを見回した。
「本当だってばぁ」ロゼが赤い髪をすく。「だって今日は、戦うつもりなんかないんだものぉ。わたしたちがここに来た目的は一つ。あなたたちと同じく、原罪のイデアを手に入れるためよぉ」
ルシアのとなりで、クロウが斬竜刀を抜いた。「お前たちには戦うつもりがなくても、こっちには戦う理由がある」長大な刀身を水平に構える。「お前を殺して、そこの小娘から竜眼を奪う」
「リリアは小娘じゃありません」リリアが舌をべっと出した。
クロウがヨミホムラを駆ろうとする。
「やめておけ、クロウ」ルシアがいった。「ロゼの不死性は空中庭園で見ただろう? いまの我々にはロゼを倒す術がない。戦ったところで無意味だ」
「⋯⋯⋯⋯」クロウは険しい顔のまま斬竜刀を下ろした。
ルシアはロゼに目を戻す。「わたしたちが原罪のイデアを取ろうとしていることは、リリアの竜眼で知ったのか?」
「そうよ。原罪のイデアだけでは世界は創れないけど、イデア自体強力な力を持っているから、あなたたちに渡すわけにはいかないのぉ」ロゼはリリアを見る。「さぁ、リリア。イデアに触れたことがあるあなたは、イデアと精神的に繋がってるから、その在り処を感じ取れるはず。灰の夜の中に入り、原罪のイデアを手に入れなさい」
「はぁい」リリアはシュバルツシルトの手綱を握った。
原罪のイデアを手に入れるには竜話の巫女の力がいるが、リリアは自身が竜話の巫女であるため、聖骸などは必要ない。イデアのもとへ行き、自身のエーテル波動を用いて、古の巫女エリュマがイデアと結んだ契約を無効化すればいいだけである。
つまりこの勝負、ルシアとリリア、先に原罪のイデアに近づいたほうが勝つ。
リリアはルシアを見た。「イデアまで競争です、お姉さま」
「競争、か」ルシアがリリアを見返す。「覚えているか? アジ・ダハーカでレンドルごっこをしていたころのことを」
「もちろん覚えてます。お姉さまがリリアのことを追いかけて、リリアが捕まったり、逆にリリアがお姉さまを捕まえたり。リリアのほうがよく勝ってましたよね?」
「あのころは、まだ幼い君にわざと勝ちを譲っていたのだ。だが、今日は違う」
ルシアは左手を掲げた。薬指の指輪が赤く光る。シスター服のスカートが舞い上がり、裏地から黒い金属片が飛び出した。金属片はルシアの体に張りつき、鎧を形成する。漆黒のバイザーがルシアの顔を覆い、バイザーの覗き穴が赤く光った。
ルシアは黒い籠手に覆われた手で、エーデルヴァイスの手綱を握った。「手加減はしないぞ」
「望むところです」リリアが竜眼を見開き、口の端を吊り上げる。「リリアがもう大人だっていうところを見せてあげます」
「飛べ、エーデルヴァイス!」「舞いなさい、シュバルツシルト!」
姉妹は、竜とともに、灰の夜へ飛び込んだ。
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