6-5

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 灰の夜に入った瞬間、ルシアの全身を生温かさが包んだ。以前はルシアはその感触を気持ち悪いものと受け取ったが、いまは違った。その温かさの正体に気づいたからだ。この温かさは、エリュマの心だった。灰の夜に溶け込んでいるエリュマの思念は、いまなお人を愛し、人との繋がりと恋しんでいた。そういったエリュマの切望が、全身に貼りつくような温もりとなって表れていたのだ。 「エリュマ⋯⋯」ルシアがつぶやく。「君の戦いは、もうすぐ終わる」 「お姉さまぁ。遅いですよぉ」  リリアの声が、物思いにふけるルシアを現実に引き戻した。ルシアは左方を見る。エーデルヴァイスと併走するように、シュバルツシルトが飛行していた。リリアは余裕の笑みを浮かべながら、ルシアを見返している。  ルシアの心に、二つの疑問が浮かび上がった。一つ目は、リリアが雷に打たれないこと。二つ目は、明らかに鈍重そうなシュバルツシルトが軽快なエーデルヴァイスにぴたりと追従できていることである。  一つ目の疑問については、すぐにわかった。よく見ると、リリアの周囲を薄い光の膜が覆っていた。膜の表面では時折火花が散っている。膜が雷を弾いているのだ。ルシアがディベオンから雷玉をもらったように、リリアもロゼから対雷のドラグーンを授けられたのだろう。  だが二つ目の疑問については、いっこうに答えがわからなかった。重厚な見た目に反して、シュバルツシルトは加速力が高いのか。それとも――。  リリアが上目遣いでルシアを見る。「どうです、お姉さま? リリアのシュバルツシルトは、お姉さまのエーデルヴァイスより優秀でしょう?」 「判断するのはまだ早い。勝負は始まったばかりだ」  ルシアは顔を前方に戻す。原罪のイデアの波動を感じるほうへ、エーデルヴァイスを加速させた。  赤い雲と灰の夜が混ざった、見る者の正気を奪うような異様な色彩の空を、二騎の騎士が駆け抜ける。両者を囲む雲は常に蠢き、雲の起伏でさまざまな形を見せた。焼けた荒野。槍や斧を握る、裸体に骨飾りを付けた軍団。戦の苦しみにあえぐ人々。古代の神殿。神殿の中央にある祭壇には、人間が縛り付けられている。イデアに捧げられる生贄だ。そしてまた戦。ルシアはそれが、原罪のイデアを奪い合って戦に明け暮れていた時代――エリュマが生きていた時代の光景なのだと理解した。  雨粒が飛来し、ルシアたちの体を叩き始めた。嵐の中に入ったのだ。雨の水は雲と同じく赤い。  ルシアは鎧越しに雨の音を聞きながら、リリアのほうをちらりと伺った。不思議なことに、リリアの体は雨に濡れていなかった。雨粒の流れは、リリアを避けるように湾曲していた。  これもロゼのドラグーンのおかげか? とルシアは一瞬思ったが、ツァラトゥストラ一族特有の鋭い勘が、違う、と告げた。これはドラグーンの効果ではない。シュバルツシルトのブレスの力だ。  ルシアは、アジ・ダハーカの祭儀場で手足が動かなくなったときのことを思い出した。シュバルツシルトのブレスは得体が知れない。ただ一つ確かなのは、シュバルツシルトのブレスはいままで聞いたことすらない未知の属性を持っている、ということだけだった。  だが、特異なブレスを持っているのは、エーデルヴァイスも同じである。 「エーデルヴァイス!」ルシアが叫ぶ。  エーデルヴァイスが鳴いた。後方から突風が吹き付ける。風はエーデルヴァイスをさらに加速させた。 「あ、ずるい」リリアがルシアの背を睨む。「追って、シュバルツシルト!」  シュバルツシルトの目が青く光った。金属の巨体が加速する。  ルシアは、再び隣に並んだ漆黒の竜を見た。「まだ速力を伸ばせるのか」  風による加速は竜の体に負担をかけるため、エーデルヴァイスはこれ以上は加速できない。それに対し、シュバルツシルトはまだ余裕を残しているように見えた。  リリアが笑みをルシアに向ける。「シュバルツシルトのすごさ、認めてくれますか?」 「⋯⋯⋯⋯」 「そのだんまりは、認めてくれたと受け取っていいんですよね? やっぱりシュバルツシルトって、お姉さまよりもステキ」  リリアはうっとりとした目でシュバルツシルトを見つめると、前にかがみ込み、竜の首筋にキスをした。  ルシアは目を細める。「何をしている?」  リリアはシュバルツシルトの首から口を離すと、桃色の舌で唇を舐めた。「リリア、お姉さまのことはあきらめました。だってお姉さまはリリアを受け入れてくれなかったんですもの。でもリリアは寂しくありません。だってリリアは、リリアのことを受け入れてくれるもっとステキな伴侶を見つけたんですから」リリアがシュバルツシルトの首筋を愛おしそうに撫でた。「ねぇ、シュバルツシルト」 「⋯⋯⋯⋯」 「リリアはシュバルツシルトといっしょに生きます」 「正気か? シュバルツシルトは竜だぞ」 「わかってます。シュバルツシルトが竜だっていうことも、世界は人と竜の愛を認めない、ていうことも」リリアが竜眼に異様な光をにじませる。「だからリリアは新しい世界を創るんです。リリアとシュバルツシルトが愛し合える世界。リリアたちを否定する人がいない、二人だけの世界を」 「リリア⋯⋯」  ルシアは手綱を持つ拳を握りしめた。リリアの歪んだ精神が創ろうとしているのは、混沌の世界よりも恐ろしい反理想郷(ディストピア)だ。  ルシアはリリアを見つめた。「わたしは君を止める。いや、止めなければならない。人々のために、仲間たちのために」 「お姉さまには無理です。だって、シュバルツシルトのほうがすごいんですから」  リリアは歪んだ笑みを浮かべながら、シュバルツシルトにほおずりをした。変わり果ててしまった妹の顔を、ルシアはそれ以上見ていられなくなり、視線を離して前方を見据えた。
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