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 エーデルヴァイスが翼をはためかせる。だが、いま以上に速くはならない。対し、シュバルツシルトはさらに加速した。エーデルヴァイスを追い抜く。  リリアは後方のルシアに向いた。「あはは、遅ぉい」  ルシアはリリアのあざけりを無視し、シュバルツシルトをじっと観察した。シュバルツシルトの青い目は、先ほどまでよりさらに強く光っている。シュバルツシルトの速さの源がブレスの力にあることは確実だった。  そして、観察してわかったことが、もう一つあった。それは、シュバルツシルトにも速度限界はある、ということである。シュバルツシルトが加速すればするほど、リリアの聖衣は大きくはためいていた。シュバルツシルトの速度に比例する風の抵抗を、リリアは受けているのだ。すなわち、空気抵抗によってリリアが吹き飛んでしまうような速度までは、シュバルツシルトは加速できない。  それならば、とルシアは思った。「エーデルヴァイス!」  エーデルヴァイスが鳴く。すると、あたりの風の動きが変わった。 「なに?」リリアが周囲を見回す。  次の瞬間、リリアは前方から押してくる強い圧力を感じた。シュバルツシルトの背から吹き飛ばされないよう、鞍にしがみつく。  リリアは険しい顔をした。「何をしたんです、お姉さま?」 「君の周囲の空気密度を上げたのだ」ルシアがいう。「空気が濃くなれば、それだけ空気の抵抗も強まる」 「卑怯ですっ」 「戦場では、卑怯は敗者の泣き言だ。覚えておくんだな」  背の上の主の異変を感じ取ったシュバルツシルトが、目の光を弱め、減速した。エーデルヴァイスがシュバルツシルトを抜き返す。  そのときルシアは、灰色と赤い雲の世界の奥に、鮮やかな色の点をかすかに見た。最初は、灰と赤の単調な色を長く見たせいで、自分の色彩感覚が狂ったのだと思った。ルシアは一度目を閉じ、再び開く。色の点は消えていない。鮮やかな色――水面に注がれた花香油の膜のように複雑に煌めく七色の光――は現実のものだった。  ルシアが光に見入ったとき、ルシアの頭の中で、封印されていた記憶が甦った。五年前、アジ・ダハーカで灰の夜に呑まれたとき、ルシアは灰色の世界をさまよった果てに、光を見つけた。いま目の前にあるものと同じ、七色の光だ。その光に触れた瞬間、ルシアは全身に痛みと恍惚を感じ、意識を失った。そして次に目覚めたときには、母譲りの明るい金髪は白色に変わり、緑色の瞳は灰色に染まり、肌は光に当たれば焼けるようになっていた。  ルシアが光に向かってつぶやく。「久方ぶりだな、原罪のイデア」 「渡しません!」リリアの叫び声。  ルシアの後方で、シュバルツシルトが吠えた。漆黒の巨体が加速する。エーデルヴァイスが空気の密度を上げているいま、加速は人にとっても竜にとってもかなりの負担だった。が、それでもリリアはシュバルツシルトの速度を上げ続けた。リリアの肌が赤らみ、シュバルツシルトの体は激しく揺れる。  限界を超えて加速したシュバルツシルトが、再びエーデルヴァイスを追い抜いた。ルシアはエーデルヴァイスを加速させることはしなかった。これ以上無理をさせれば、エーデルヴァイスの身体に何かしらの害が残るかもしれない。  そのままシュバルツシルトは一気にエーデルヴァイスとの距離を離した。 「⋯⋯⋯⋯」ルシアは遠ざかっていくリリアの背を見送る。  リリアが、はるか後方のルシアに振り返った。右の顔であざ笑う。「あきらめたんですかぁ?」 「いや、避難したのだ。そこは危険だからな」ルシアはエーデルヴァイスの背に手を添えた。「鳴け、エーデルヴァイス!」  エーデルヴァイスが甲高い声を響かせる。  リリアの周囲の雲が勢いよく動いた。赤い雲の塊が、滝のように落下していく。 「これって⋯⋯」  リリアがそうつぶやいた直後、シュバルツシルトの体が強く揺れた。シュバルツシルトは不安定な軌道で急激に高度を下げる。  リリアは鞍の上から落ちないように、シュバルツシルトの首に抱きついた。「どうしたの、シュバルツシルト?」 「ダウンバーストだ」シュバルツシルトに代わり、ルシアが答える。「強烈な下降気流。騎士がもっとも注意すべき風だ」  ルシアはエーデルヴァイスの手綱を操り、ダウンバーストを迂回した。下降気流の檻に囚われ、ほぼ停止してしまったシュバルツシルトをあっさりと追い抜く。 「お姉さまぁぁ!」リリアが叫んだ。「よくもぉぉおっ!」 「わたしのことよりも、そのまま雲海の下に落ちないかを気にしたほうがいいぞ」  ルシアはリリアを引き離し、七色の光を目指した。
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