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 ルシアの目に、宙に浮かぶ石床と、その中央に位置する無人の王座が見えて来た。王座は、古の時代に原罪のイデアを所持していたクアンの王が座っていたものだろう。エリュマは油断したクアン王に背後から近づき、クアン王の冠に取り付けてあった原罪のイデアに、自身を捧げた。そのとき生じた灰の夜は、原罪のイデアごと、石床と王座を取り込んだのだ。  蛇紋岩で造られた石床は、もとは王が住まう壮大な大宮の一部だったのだろう。しかし灰の夜に切り取られたいまは、オペラの主舞台ほどの広さの皿状の浮島に変わっていた。床の表面には、原始的な幾何模様の溝が刻んである。その溝がただの飾りなのか、それとも何か象徴的な意味があったのかは、その当時の人々にしかわからない。幾何模様が収束する先には、王座が据えてあった。王座は石英を多分に含んだ閃緑岩製で、ひじ掛けはヒスイやカンラン石で飾ってある。背もたれには獅子や猛牛などの彫刻が施してあり、それらの獣は口にトルマリンを咥えていた。過剰なまでの装飾群は、長い年月を経ているにも関わらず、変色も風化もまったくしていない。  七色の揺らめく光の源は、その王座の頂上に在った。王座の背もたれに施された彫刻の一つに、クアン王のものであろう黄金の冠が引っ掛かっており、その冠の頂に七色に輝く円環が浮かんでいる――原罪のイデア――。円環の形を成しているのは、人間の罪は終わりのない輪の上を回り続けるように永遠に巡る、ということの象徴であろうか。  ルシアは原罪のイデアを手に入れようと、エーデルヴァイスを王座へ滑空させた。 「させない!」リリアが叫ぶ。  シュバルツシルトの目が強い光を放つ。その直後、ルシアの体に異常な圧力がかかった。背に重い石を乗せられ押し潰されるような感覚。力はエーデルヴァイスにも作用し、エーデルヴァイスは滑空軌道を大きくずらした。  ルシアが兜の下で目を細める。「これは⋯⋯」  強力な力によりルシアは姿勢を崩し、エーデルヴァイスの上からずり落ちた。石の床に落下する。エーデルヴァイスも床上を滑るように着地した。 「くっ」ルシアは痛む頭を左手で押さえながら、立ち上がる。  ルシアの目の前に、シュバルツシルトが着地した。竜の背では、リリアが険しい目つきでルシアを見下ろしている。赤い雨に濡れたリリアの姿は、聖王というより覇王と呼ぶにふさわしい威圧を放っていた。 「痛かったですか?」リリアがいう。「でも、お姉さまが悪いんですよ。リリアの邪魔をするから」 「だが邪魔をしたおかげで、シュバルツシルトのブレスの正体がわかった」ルシアはシュバルツシルトを見つめる。「重力、だな」 「⋯⋯気づくなんて、さすがはお姉さまです」リリアは愛おしむ手つきで、シュバルツシルトの首を撫でた。「この世の物は全部、重力に支配されてます。その重力を掌握してるシュバルツシルトは、すなわち世界を統べる竜」 「だが万能ではない。弱点もある」 「⋯⋯⋯⋯」 「シュバルツシルトは、重力の力場は一か所までしか作ることができないのだろう? その証拠に、いまリリアは雨に濡れている。シュバルツシルトが、わたしを落とす重力場を作り出すために、雨をリリアから退ける重力場を消したからだ」  リリアは口元に笑みを浮かべた。「やっぱりお姉さまって勘がいい」 「それともう一つ。この世の物はすべて重力に支配されていると君はいったが、それは違う」ルシアは左腕を横に掲げる。「エーデルヴァイス!」  エーデルヴァイスが鳴き、疾風が吹いた。風の槌がリリアを打つ。リリアはシュバルツシルトの上から吹き飛び、床の上を転がった。  ルシアが腕を下ろす。「重力でも、風は束縛できない」 「いったぁい」リリアはゆっくりと体を起こした。「やってくれますねぇ」 「来い、リリア」ルシアは腰に差していた二本の剣を抜いた。左半身をリリア向けると、右の長剣は肩の上に乗せ、左の小剣は顔の前で水平に構える。「竜はなしだ。エーテルを不安定にする原罪のイデアの近くでは、竜は自由に飛べないからな」 「受けて立ちます、お姉さま」リリアは腰に差していたレガリアの剣を抜いた。剣を握る右手は頭の上まで持ち上げ、左手は背中に回す。剣の切っ先は下に向けていた。剣術ではなく剣舞の構え。「リリアの剣の舞、速いですよ。お姉さまについて来れますか?」  ルシアとリリアは口と閉じ、睨み合った。周囲にこだまするのは、嵐と雷鳴の音だけになる。  一際大きな雷鳴が響いたとき、石床の足場の回りを囲む赤い雲がひずみ、人の群れを形作った。様々な時代、様々な国の鎧をまとった英雄たち――灰の夜に呑まれ命を落とした戦人らの残留思念だった。数多の古の英霊たちは、一つの歴史の変革をもたらす決闘の立合人になろうとしているかのように、じっと二人を見つめている。  赤い迅雷が英霊の一人を切り裂いたとき、ルシアとリリアは同時に床を蹴った。
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