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「あら?」ミラルダが声を上げた。
「どうしたのですか?」レンがきく。
「シクラメンが⋯⋯」
レンとミラルダは教皇庁の庭園を散歩していた。ミラルダはレンの目となって花園を案内していたのだが、迎賓館前の花壇の一角に来たとき、ちょっとした異変に気づいたのだ。
ミラルダは屈み込むと、花壇の外に落ちていた赤い花を拾い上げた。「花首が切れて、花が落ちていました」
「⋯⋯⋯⋯」
「きっと鳥にかじられたのでしょう」ミラルダは花を手の上に乗せ、立ち上がった。
「シクラメンとは、どのような花なのでしょう?」目が見えないレンが、きいた。
「赤や濃い桃色の花弁が火が燃え上がるように立っている、珍しい形の花です」
ミラルダはレンの手を取ると、レンの手のひらの上に落ちていた花を置いた。レンは花を優しく触り、そして匂いを嗅いだ。
「匂いはしませんでしょう?」とミラルダ。
「はい」
「シクラメンにはいろいろな伝説があるのですよ。例えば、シクラメンの茎は花弁の手前で下に折れ曲がっているのですが、その形を人が頭を垂れている様に見立てて、かつてシクラメンの花の精が吟遊詩人の青年に愛を告白されたとき恥じらいうつむいたから、いまの形になったのだ、など」
「頭を垂れて?」
「はい。花弁を人の頭部と見なせば、まさに花が恥じらって顔を伏せているかのよう」
「⋯⋯とても美しい見立てです」
レンはミラルダにそういった。だが実のところ、レンは心の中では不吉なものを感じていた。ヤマタノオロチでは、頭を垂れるという行為は斬首になる罪人がすることである。花首が切れていた、花の色が赤い、というミラルダの言葉も、レンに忌まわしい連想をさせた。
「レン様?」ミラルダがレンの顔を覗き込む。「少し顔色が悪いようですが、まさかお体の具合が優れないのでしょうか?」
「⋯⋯心配をかけてしまい、もうしわけございません。慣れない潮風で少し体が冷えたのでしょう」
ミラルダはうなずいた。「では、ちょうど賓館の前にいることですし、今日はもう館の中に戻りましょう。温かい紅茶をお持ちいたします」
ミラルダはレンの背に手を添え、賓館へ導いた。
賓館に向かいながら、レンは手の中のシクラメンをもう一度嗅いだ。本来は匂いがしないはずのシクラメンから、血の臭いを嗅いだ気がした。
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