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 先に仕掛けたのはルシアだった。剣を十字に交差させたまま、リリアへ走り込む。  ルシアは小剣を払った。リリアの剣が小剣を弾く。間髪入れず、ルシアは長剣でリリアの胸元へ突きを繰り出した。リリアは軽快な足運びで長剣を避けると、レガリアの剣でルシアを攻撃しようとする。が、その前にルシアは再び小剣をリリアに振るった。リリアは攻撃を止め、剣で小剣を防御する。  赤い雨が降りしきる中、幾重もの剣閃が走った。ルシアが二刀の連撃を走らせ、リリアがそれを剣とステップでしのぐ。一見、ルシアの猛攻にリリアが反撃できないかのように見えた。だが実際は違う。ルシアは左手に傷を負っている。戦いが長引けば長引くほど傷口は開き、ルシアの左手の動きは鈍る。リリアはそのことを承知し、防御を優先しながら獲物が弱るのを待っているのだ。  長期戦は不利だ、一気に決めねば。  そう考えたルシアは、深く踏み込むと、長剣を薙ぎ払った。リリアは後ろへ大きく飛び、長剣をかわす。  石床に足を着いたリリアは、背後をちらりと見やった。リリアの後方にはもう足場がなかった。そこは灰の夜に切り取られた石床のふちである。  ルシアがリリアへ迫る。「踊りはもう終幕だ」  ルシアは返す刃で長剣を薙いだ。 「そんなただの剣なんて、リリアには通じませんっ」  リリアがレガリアの剣を振る。レガリアの剣の白刃が、ルシアの剣の刀身を斬り落とした。  ルシアは長剣を失った。が、ルシアに焦りはなかった。長剣は最初から斬らせるつもりだった。リリアの聖衣には、同じレガリアである指輪の力を付加した小剣しか通じないからである。ルシアが長剣を繰り出したのは、それを囮にして、リリアにレガリアの剣を大振りさせるためだ。  ルシアは長剣の柄を手放すと、リリアの懐に飛び込んだ。左手の小剣に指輪の力を吹き込み、リリアの胴へ刺突を放つ。その動きは迅速で、リリアにレガリアの剣を引き戻す時間はなかった。  小剣の切っ先がリリアの腹に突き刺さろうとした次の瞬間、突如、ルシアの左手に鋭い痛みが走った。 「な⋯⋯に?」ルシアは左手を見る。  左手の甲に、リリアの聖衣のスカートのすそがぶつかっていた。リリアが舞の勢いを利用し、当てたのだ。無論、本来ならば布などぶつかったところで痛くもかゆくもない。だが、いまのリリアの聖衣は雨水を含んで重くなっていた。水の重さを持った布地の打撃は、ルシアの手の傷口を開かせた。  ルシアの左手は握力を失い、小剣を落とす。 「長剣が囮なのは、初めから見抜いてました」リリアはレガリアの剣を引き戻した。「もう一度ききます。このドレス、とっても良いと思いませんか?」 「ならばわたしももう一度答えよう。戦うのなら、全身を覆ったほうがいい」  ルシアは左手を振るった。同時に鎧の籠手が開き、中から血の滴が飛ぶ。血はリリアの竜眼へ向かった。血の目潰し。 「聖衣よ!」レガリアの衣が変形し、リリアの目を守った。ただしリリアの視界も塞いでしまう。  一瞬の隙。ルシアは右手で足元の小剣をつかむと、リリアへ投げつけた。赤い光をまとった小剣が、リリアの顔を襲う。 「無駄です」リリアがいう。  リリアは上体をのけぞらせた。小剣はリリアの仮面をかすめる。リリアには、ルシアの動きがすべて見えていた。 「竜眼か」とルシアは気づいた。リリアは竜眼の遠視を使い、聖衣越しにルシアの動きを見ていたのだ。  聖衣が元に戻り、リリアの顔が露わになる。「惜しかったですねぇ。リリアに竜眼がなければ、お姉さまが勝ってたのに」 「次は竜眼すらもあざむいてやる」ルシアは鎖を引いて、小剣を手元に戻そうとした。 「次なんてありませんっ」  リリアは左脚を上げて小剣の鎖にからめた。リリアの脚を太ももまで覆っているロングブーツが変形して鎖にまとわり付き、鎖を止める。 「くっ⋯⋯」ルシアがバイザーの下で顔を歪めた。小剣を封じられては、もうルシアに武器はない。 「そういえばお姉さま、さっきリリアをひざで蹴りましたよねぇ」リリアがいう。「これはそのお返しです」  リリアが右脚で飛び上がり、体をひねってルシアの兜に蹴りを見舞った。リリアの細い脚からは想像もできないほど重い蹴り。打撃の衝撃はバイザーを貫き、ルシアの顔を叩いた。ルシアの口の中が切れ、舌に血の味が広がる。  ルシアはひざを着き、がくりと頭を下げた。兜の隙間から、口から流れた血が滴る。  ルシアのそばに、リリアが右脚で着地した。冷たく光る竜眼でルシアを見下ろす。 「終わりですね、お姉さま」リリアはレガリアの剣を振り上げた。頭を垂らしているルシアの首に、狙いを定める。「リリアの剣舞、最期に楽しんでくれましたか?」  リリアは冷酷な笑みを浮かべていた。残虐な処刑人が死刑囚に向ける笑み。  だがしかし、ルシアが顔に浮かべていた表情は、首をはねられる死刑囚のそれではなかった。 「そうだな」ルシアがいう。「君の舞、大いに楽しませてもらった。万雷の拍手を贈らせてくれ、文字通りな」  直後、周囲を閃光が包んだ。爆音が響き、石床を揺らす。落雷。亀裂状の赤い光の筋がルシアの鎖の上を走り抜け、レガリアの鎧の表面を通り、足元へ抜けていった。すべては一瞬のことである。 「あ⋯⋯ぐ」リリアが声にならない声を漏らす。鎖を巻きつけたリリアの左脚からは、焦げ臭い煙が立ち昇っていた。「雷⋯⋯なんて⋯⋯どうして⋯⋯急に?」 「避雷針だ」ルシアはリリアは背後を見やる。ルシアが投げた小剣は足場をはみ出して、雷鳴が轟く空に向かって伸びていた。「先ほど投げた小剣は、君を倒すために投げたのではない。避雷針にして、雷を呼ぶために投げたのだ。わたしは全身をレガリアの鎧で覆っているため雷を遮断できるが、肌を露出している君は雷を防げない」 「そん、な⋯⋯」  リリアの身体が崩れ落ちた。石床の上にぐったりと倒れる。 「お、ねえ、さま⋯⋯」 「忠告しただろう? 肌は隠しておくべきだ、とな」  ルシアは指輪の力で鎖を操り、小剣を左手に戻した。目の前で仰向けに倒れているリリアを見下ろす。リリアはうっすらと目を開けていた。意識はある。稲妻は致命傷にはならなかったらしい。  ルシアは、リリアが死んでいないことに安堵している自分に気づいた。敵対しながらも、心の底では妹には死んでほしくないと願っているのだ。  だが――、とルシアは思いながら、小剣を握りしめた。ここでリリアにとどめを刺さなければ、人々も、世界も、リリア自身も暗黒の未来に堕ちる。  ルシアは小剣を構えた。リリアの頭のかたわらに片膝を着くと、小剣の切先をリリアの左胸に当てる。「許してくれ、リリア」 「⋯⋯う」リリアは弱々しく光る竜眼でルシアを見た。 「最期に、言いたいことはあるか?」 「シュバルツ、シルト⋯⋯」リリアが苦しげに唇を動かす。「リリアが死んだら⋯⋯シュバルツシルトは⋯⋯どうなるんです?」 「⋯⋯⋯⋯」  ルシアはシュバルツシルトをちらりと見た。漆黒の金属竜は、主の危機を目の前にしても助けることなく、じっとしている。忠実過ぎるほどに待機命令を守っているようだった。  ルシアはリリアに目を戻す。「君の半身であるシュバルツシルトが、君が命を落としたときにどうなるのかは、わからない。君とともに消えるのか、それとも存在し続けるのか」 「それなら⋯⋯」リリアがにっと笑みを浮かべる。「お姉さまで試してみましょう。お姉さまが死んだら、エーデルヴァイスも消えるのかどうか」 「っ!」  ルシアはリリアから飛び退こうとした。が、すでに遅かった。  リリアがレガリアの剣を突き出す。剣の白刃が、ルシアの胴の深くに食い込んだ。鎧を濡らす赤い雨よりも真っ赤な血が、ルシアの腹からあふれる。 「ありえない⋯⋯」ルシアは目を細めた。「雷を受けて、動けるはずが⋯⋯」 「リリア、雷は受けてません」  リリアは太ももを覆っているロングブーツのふちを、左手でめくった。聖衣とリリアの肌の間に、黒い布が挟んである。ルシアはその布生地に見覚えがあった。雷竜の国ファフニールへ侵攻する際にロゼからアエーシュマ歩兵隊に支給された、雷のブレスを遮断するマント。それと同質の生地だった。 「ロゼ様がくれたんです」リリアが黒い布をつまむ。「お姉さまが雷を利用してくるかもしれないから、これを聖衣の下に隠しておきなさい、て。これのおかげで、さっきの雷、ちょっと痺れただけですみました」  ルシアは、腹部に鋭い激痛を感じながら、シュバルツシルトがリリアを助けようとしなかったわけを悟った。シュバルツシルトは最初から、リリアは雷に感電していないと知っていたのだ。 「卑怯だなんていいませんよね?」リリアは優越の表情を浮かべると、レガリアの剣をルシアの胴から引き抜いた。  鎧にあいた穴から大量の血がこぼれ、ルシアはうめき声をあげた。失血で死ぬ前に、鎧の装甲を変形させ傷口を押さえる。だが血は止まらない。傷は内臓まで届いていた。  もはやまともに身動きすらできないルシアの目の前で、リリアは軽やかに立ち上がった。レガリアの剣に付いたルシアの血をべろりと舐め、竜眼をうっとりと細める。「お姉さまの味」  エーデルヴァイスがルシアを守ろうと飛んだ。が、シュバルツシルトが重力のブレスでエーデルヴァイスの体を石床に押さえつける。そのとき、過大な重力に耐えられなかったのか、鞍の上にあった竜話の巫女の聖骸が砕けた。ミイラの欠片が雨水に溶け、布包みから流れ出す。エーデルヴァイスは汚れた雨水を浴びながら、かすれた泣き声を漏らした。  ルシアがエーデルヴァイスに視線を向ける。「エーデルヴァイス⋯⋯」 「竜の心配より、自分の心配をしたほうがいいんじゃないですか、お姉さまぁ?」  リリアはルシアの兜に触れた。兜のバイザーが上がり、ルシアの顔が露わになる。ルシアの口元には血が滲んでいたが、赤い雨がすぐに洗い流した。  リリアは、唇が触れそうなほどの距離まで、顔をルシアに近づけた。「戴冠式のときリリアのことを受け入れてれば、こんなことにはならなかったんですよぉ。リリアを拒んだこと、後悔してますか?」  ルシアはリリアをじっと見返す。「しているように見えるか?」 「いいえ。とっても生意気な目をしてます」  リリアはルシアから顔を離すと、剣の切っ先をルシアのほおに当て、引っ掻いた。切り傷から血が滴る。 「あ、そうだ」唐突に、リリアがいった。「リリア、いいことを思いつきました」 「⋯⋯⋯⋯」  リリアは自分の顔の左半分を隠している仮面に触れた。「リリア、左目は見えないままなんです。お姉さまの目玉をくり抜けば、その目を使ってロゼ様がリリアに新しい目を作ってくれるかもしれません。右の竜の眼みたいに」  ロゼでもそれは無理だ、とルシアは思った。だが黙っていた。いまのリリアに、ルシアの言葉が届くことはない。  リリアはレガリアの剣の先を、ルシアの右目の目尻に当てた。ルシアのほおを、血の涙のように、赤い筋が伝う。 「ルシアお姉さま――リリアが愛していた人」リリアが、ルシアの赤い瞳をじっと見つめる。「お姉さまはリリアを拒んだけど、それでもリリアはお姉さまのことを忘れたくありません。だから、お姉さまの一部をリリアに下さい。そうすれば、思い出はずっといっしょです」  ルシアの視界が、暗くなった。痛みは感じなかった。目をくり抜かれるとはこういう感覚なのか、とルシアは思った。  ⋯⋯いや、何か妙だ。なぜ左の視界まで暗くなる?  そのとき突然、足場が揺れた。  リリアがあたりを見回す。「な、何?」  ルシアも周囲を確かめた。原罪のイデアがある王座のまわりが、暗く沈んでいた。イデアの光が消えたわけではない。王座にまとわりつく暗がりそれ自体が、イデアの光を吸い取っていた。ルシアの視界が暗くなったのは、目を失ったからではなく、その暗さがイデアの光を遮ったからだった。 「これは⋯⋯」ルシアはその奇妙な暗闇を見つめた。それは黒色ではなく、濃い灰色だった。脱色された絵画のような灰色の暗闇は、生物的に輪郭をうねらせている。「⋯⋯灰の夜。それが収束しているのか?」  そのときルシアの耳に、女の声が届いた。リリアのものではない。奇妙な響きを持った、不思議な声。 〈ルシア⋯⋯〉その声は、収束した灰の夜から聞こえた。  ルシアは、灰の夜の名を呼ぶ。「――エリュマ」 〈リリアに、世界を創らせては駄目〉 「誰!」リリアが叫んだ。竜話の巫女であるリリアには、ルシアよりもよくエリュマの声が聞こえているはずである。「どうしてリリアが世界を創ったらいけないんです!」 〈リリア、あたながもたらすものは、始まりではなく、終わりだから〉エリュマがいった。〈わたしはルシアを選ぶ。お願い、ルシア。大地を創って――〉  ルシアはうなずいた。「⋯⋯約束する」 「大地なんていりませんっ」リリアが、目に見えない声の主を斬ろうと中空で剣を振る。「リリアの世界を創るんです!」 〈エーテルの巫女リリア〉エリュマの思念が、リリアに語りかける。〈我、エーテルの巫女エリュマは汝を同朋とみなす。原罪のイデアよ。リリアの名において、灰の夜を――わたしを消して!〉  原罪のイデアが、灰色の闇でも覆い切れないほど強く、光り輝いた。  灰の夜の収束体は、輝く原罪のイデアを内包し、王座から飛び立った。ルシアのそばを通り抜け、リリアにまとわりつく。  リリアは灰色の闇とイデアの光に気おされて、後ずさった。「嫌⋯⋯」 「エリュマ」ルシアがいう。「ありがとう。ゆっくり眠ってくれ」  原罪のイデアから光の帯が走り、その光に浄化されるように、灰の夜は四散していった。断片となった灰色の空間は、さらに小さな塵となり、そして消え去る。その後には、七色の光を放つ円環――原罪のイデアが残った。  イデアはゆっくりと、ルシアの手の上に落ちていく。 「お姉さまぁぁあ!」  リリアが剣を構えてルシアへ襲い掛かろうとしたとき、足元の石床が割れた。灰の夜という魔力を失い、ただの石の塊となった足場が崩れ始めたのだ。リリアは転び、斜めにかしいだ床の上を滑り落ちる。  古の史跡が崩れゆく音が響く中、ルシアの左手の上に、原罪のイデアはおさまった。イデアが放つ七色の光が、ルシアの赤い瞳を煌めかせる。  遺跡を囲んでいた赤雲の英霊たちは、歴史の変革を見届けると、自らの輪郭を大きく揺らめかせた。次から次へと霧散し、雲に戻っていく。英霊たちの姿がすべて消えると、雲は最後に一人の女性を形作った。赤い装束をまとった、美しい姿の太古の巫女。  巫女は天高く――空より高い天空まで舞い上がると、穏やかに消えていった。
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