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アエーシュマ歩兵隊が王から与えられた命令は、ファフニールの左翼の端にある宿場町アルブラを制圧し、アジ・ダハーカ軍がファフニールの背へ乗り込むための橋頭保を築くことだった。
通常、歩兵部隊が敵国の町を攻める際は、敵の対竜バリスタが届かない郊外の制空権を騎士隊に確保させたのち、兵員搬送用の大型の竜を使ってその場所に降り立ち、千人規模の歩兵団を編成して、それから町へ進軍する。だが浮竜ファフニールが旋回して逃げようとしているいま、アエーシュマ歩兵隊にはそのような悠長な戦術を取っている時間はなかった。制空権を確保していない状態で強引に敵地に乗り込むしかないのだが、大部隊ではすぐにファフニールの騎士隊に見つかり、兵員搬送用の竜ごと撃墜されてしまう。それゆえ敵に見つかりにくい小型の竜を使い、少数部隊でファフニールに乗り込むしかなかった。
「にしても、たった五十人の小部隊で敵地に放り込まれるなんてな」ラブリスはアジ・ダカーハから目を離し、周囲を見回した。「ったく、毎度毎度、無茶な役目ばっかやらされるぜ」
円陣を組むアエーシュマ歩兵部隊の周りを、四騎のファフニール騎士が獲物の隙を狙う猛禽類のようにぐるぐると飛んでいた。騎士たちはアルブラに駐留していた警備隊で、黒鎧の歩兵を載せたアジ・ダハーカの竜がアルブラの郊外に着陸するのを目ざとく見つけ、自国の領内に入り込んだアリの殲滅に来たのだった。
が、そのアリが予想外の抵抗を見せた。
ファフニールの騎士の一人が口を開く。「歩兵の小部隊だったがゆえに、われら五騎のみで充分だと判断し露払いに来たのだが、よもや一騎落とされようとは⋯⋯。まさか貴様ら、あの悪名高きアエーシュマ歩兵隊か?」
「アエーシュマ歩兵隊ってのはあってるぜ」ラブリスがいった。「悪名高いかどうかは知らねぇが」
「ティアマトとの戦では、ティアマト軍の飲み水に毒を盛ったと聞いているぞ」
「何をやっても勝てばいい。それが戦争だろ」
「下賤な獣どもめ。ならばこちらも手段を選ばんぞ。あれを歩兵ごときに使うのは騎士道精進に反するゆえ封じていたが、その禁を破ろう」
「禁だって?」
騎士が竜の横腹を蹴った。「吐け、グレイスウィング!」
グレイスウィングと呼ばれた竜が喉を膨らませる。竜の口の端に、青い火花が散った。
ラブリスがグレイスウィングの顔を睨む。「やべぇ。ブレスだっ」
グレイスウィングが口を開き、青く光る喉穴をラブリスたちに向けた。
次の瞬間、予期せぬ方向から不意に細長い影が飛来し、ラブリスたちの頭上を越え、グレイスウィングの口の中に飛び込んだ。竜の口から赤い血しぶきが上がり、ブレスが止まる。
「な、何だ?」騎士が竜を見た。グレイスウィングの口の中に、男の腕ほどもある巨大なボルトが突き刺さっていた。「これは⋯⋯対竜バリスタのボルトっ」
直後、他の騎士たちにもボルトが飛来した。強烈なボルトが竜の鱗をたやすく貫く。ボルトの一本は騎士に命中し、白銀の鎧ごと騎士の胴体を串刺しにした。騎士は兜の中に血反吐を吐き、崩れ落ちる。
「やっとおいでなすったぜ」ラブリスが振り返る。「遅いですぜ、隊長」
ラブリスたちが立つ足場の外側に、大型の黒竜が浮かんでいた。竜の背には黒鎧の歩兵たち二十数人と、対竜バリスタ四基が乗っている。
歩兵たちの先頭に立っているジョロウグモの戦士がいった。「待たせて悪かったな。対竜バリスタが重く、荷竜が上昇するのに時間がかかったのだ」
ラブリスがへっへっと笑う。「重かったのは本当に対竜バリスタのほうですかね? 隊長の尻のほうじゃ⋯⋯」
「お前もバリスタに撃ち抜かれたいのか?」
「戦場で死ぬ覚悟はできてますが、無駄死にだけはごめんです」
「え、援軍だと」騎士の一人がいった。「その獅子の戦士が率いている歩兵部隊は囮だったのか」
「悪く思うな」ジョロウグモの戦士が騎士を見る。「アルブラにはお前たち騎士隊が駐留してる。歩兵が騎士に立ち向かうには対竜バリスタが必要だが、バリスタを載せた荷竜を率いてアルブラに近づいても、アルブラに設置してある防空用のバリスタでこちらの荷竜が落とされるのがオチだ。だからラブリスたちに囮になってもらい、お前たち騎士隊をアルブラの防空バリスタの射程外までおびき出したのだ」
「お、おのれ⋯⋯」
騎士が乗る竜が脱力し、騎士はファフニールの背に落下した。騎士は竜から降り、剣を抜いてなおも戦おうとしたが、地上戦においてアエーシュマ歩兵隊に勝てる者はいない。騎士はたちまち黒鎧の歩兵たちの槍に貫かれた。
対竜バリスタの奇襲によって三騎の騎士が落ちたが、一騎だけまだ飛び続けていた。グレイスウィングだ。グレイスウィングは喉にボルトが刺さった痛々しい姿で懸命に浮かんでいる。まだ戦おうとしているのだ。
「グレイスウィング⋯⋯」騎士はグレイスウィングの首筋に触れた。「承知した、我が戦友よ。ここが我々の最期の戦場。せめて一矢報いてから、ともに散ろうぞ!」
グレイスウィングは残っている力を翼にかき集めて、羽ばたいた。竜の体が加速を始める。
「へっ、お高くとまった騎士の割には根性あるじゃねぇか」ラブリスは十字槍を構えた。「敬意を表して、正面から迎え撃って⋯⋯て、ありゃ?」
グレイスウィングが向かったのは、ラブリス率いる部隊のほうではなく、対竜バリスタを乗せた荷竜のほうだった。荷竜は人や物資を運ぶための竜であり、戦闘能力はほとんどない。瀕死のグレイスウィングでも落とすことができる。
「まずい!」ラブリスが叫んだ。荷竜がやられれば、背の上の歩兵たちも落下する。落下した先は雲海だった。
グレイスウィングが荷竜に迫る。騎士は槍を構えた。
「良い判断だ。だが⋯⋯」荷竜の背の上に立つジョロウグモの戦士が、右手の長剣を握りしめた。「貴公は歩兵の力を見くびりすぎている」
ジョロウグモの戦士が荷竜の背を蹴り、騎士に向かって飛んだ。ファフニールの騎士は、まさか敵のほうから竜の背の外に飛び出てくるとは思っていなかったため、戦士に反応できなかった。戦士に槍の穂先を飛び越される。
ジョロウグモの戦士が長剣を薙ぎ払った。跳躍の勢いを乗せた強烈な斬撃が、騎士の頭を兜ごと叩き斬る。騎士の手から力が抜け、槍が落ちた。
手放された槍を見たグレイスウィングは、主の死を悟った。動きを大きく乱す。その隙を狙い、荷竜の背に乗るカラスの兜をかぶった戦士が槍でグレイスウィングの頭を叩いて、竜の飛行軌道を反らした。グレイスウィングの突撃は、角で荷竜の腹をかすっただけに終わる。そしてそのまま、グレイスウィングは主の亡骸とともに雲海へ落ちていった。
荷竜とその乗員たちは助かった。だがジョロウグモの戦士だけはまだ危機を脱していなかった。荷竜の上から飛び出したジョロウグモの戦士の体が雲海に落下していく。
「お嬢!」ラブリスが叫んだ。
「ラブリス、受け取れ!」
ジョロウグモの戦士が、左腰に差していたもう一本の剣を、左手で抜いた。赤い刀身を持つ小剣。小剣は柄の先に鎖を装着しており、鎖は戦士の左腕に巻きついていた。
ジョロウグモの戦士が小剣をラブリスへ投げた。小剣は鎖の尾を引きながら、ラブリスめがけて飛ぶ。ラブリスは体をひねって小剣の切っ先をかわすと、左手の盾を捨て、小剣の柄から伸びる鎖をつかんだ。
鎖がピンと張り、ジョロウグモの戦士の体が振り子の要領で落下軌道を変えた。弧を描きながら落ち、そしてそのままファフニールの巨大な翼の側面を覆っている銀色の鱗にぶつかる。痛そうな音が響いたが、少なくとも雲海に落ちるよりはマシだった。
ラブリスは鎖を引っ張ってジョロウグモの戦士を引き上げた。「無事ですかい、お嬢?」
「お嬢はよせ」ジョロウグモの戦士は立ち上がると、涼しい立ち振る舞いで右手の長剣を鞘に戻した。
「ったく、荷竜から飛ぶなんて、無茶しすぎですぜ。あんまりはらはらさせないでください。こっちは寿命が十年は縮まりましたよ」
「それならば代わりに、お前が毎日浴びるように飲んでいる酒を断てばいい。十年は寿命が延びて、差し引きゼロになるぞ」
「酒が飲めないんなら、長生きしても意味がありません」ラブリスはジョロウグモの戦士に鎖付きの赤い小剣を差し出した。「はい、どうぞ。大切な剣なんでしょう? 俺にとっての酒くらいに」
「酒といっしょにするな」
ジョロウグモの戦士は鎖小剣を受け取った。小剣を鞘に納めると、剣の柄から伸びている鎖を左腕に巻き直す。
鎖を戻し終えたとき、戦士の顔を覆っているジョロウグモのバイザー部の下側から、数滴の血が滴った。
ラブリスが血を見る。「ファフニールの鱗にぶつかったときに怪我したんですかい?」
「たいした傷ではない」
「ちょっとの怪我でも、後々響くこともあるんです。いちおう診せてください」
ラブリスは他の歩兵たちに目配せをした。歩兵たちはすぐさま荷物袋を開き、大きな黒地の布を取り出した。紫色の剣に二匹の黒蛇がらせん状に巻き付いている絵柄が刺しゅうされた、アジ・ダハーカ国旗だ。歩兵たちはそれぞれ国旗の四隅をつかむと、国旗を広げて、簡素なテントを作った。
ラブリスは自分の兜のバイザーを上げた。バイザーに施された獅子のレリーフとそれほど変わらない、いかついひげ面が現れた。「さぁ、お嬢。テントの下に入ってください」
「お嬢はよせといってるだろう。隊長か、もしくはルシアと呼べ」ジョロウグモの戦士はテントに入って正座すると、兜を外した。
白く長い髪が、はらりと垂れた。髪の毛が起こした風で、兜の中にこもっていた匂いがあたりに広がる。若い女特有の甘い香りだった。
露わになった女の顔は、髪の毛と同様、色彩がなかった。汗でしっとりと濡れた肌は、戦人にはふさわしくないほど白い。つり気味の目の中で光る瞳の色は、灰色だった。モノクロームな顔の上において、淡いピンク色の唇とこめかみから流れる赤い血の筋だけが、鮮やかな色を持っていた。
美貌だが、どこか死の気配を感じさせる容姿。戦場で数多くの死を見て、そして与えてきた者だけが持つ静かなたたずまいが、彼女に気高い死神のような雰囲気をまとわせていた。
アエーシュマ歩兵隊の隊長ルシアは、腰まで伸びる長い白髪を手で束ねた。「髪型はシニヨンにしてまとめていたのだが、解けてしまったか」
「自分で結ぶからですぜ。ったく、剣の腕は達人級なのに、女らしいことは人並み以下なんですから」
ラブリスはルシアの顔を伝う血を拭き取ると、こめかみの傷の程度を調べた。皮膚が浅く切れているだけの軽傷だった。おそらくは、バイザーを固定する留め金具に引っかかってできたのだろう。
ラブリスは部隊用の荷物袋の中から、油紙に包んだ手のひらほどの大きさの筒を取り出した。油紙をほどく。中には乳白色の液体で湿った包帯が入っていた。治癒能力を持つ白竜の体液を染み込ませた湿布だ。「ちょっとだけしみますぜ」
「癒竜の湿布を使うのは初めてではないのだから、知っている。それと、その湿布を顔に貼った状態で兜を被ると、兜の中が竜の体液で生臭くなることもな」
ルシアは両目を閉じると、顔を上向きにしてラブリスに向けた。まるでキスをねだっているような仕草だったので、ラブリスは小さくうめいた(本当に口づけをしようものなら、首をはね飛ばされるのはわかっていた)。ラブリスは癒竜の湿布の束から使う分だけ裂くと、ルシアのこめかみの傷口に湿布を貼った。
ルシアが目を開く。「手当ては終わったか? ならばもう兜をかぶっても構わないな? ファフニールの銀の鱗は太陽の光をよく反射する。テントの日陰の下とはいえ少し辛い」
「ええ、治療は終わりましたよ。隊長の体なら、半日くらいで傷痕一つ残さず治るでしょう」
ルシアは兜をかぶった。髪を結んでいる時間はないので、長い後ろ髪は兜の首穴の部分から吹き流しにした。
ラブリスは、簡易テントを支えていた兵士たちに、もういい、と手で合図した。兵士たちは天井がわりにしていたアジ・ダハーカ国旗を手早く畳むと、荷物袋にしまった。
ルシアが治療を受けている間に、ルシアとともに荷竜に乗ってきた援軍の歩兵たちは、ラブリスが指揮していた陽動部隊と落ち合っていた。アエーシュマ歩兵隊の隊員七十余人が、隊列を整えてルシアの指示を待っている。
兵士を運び終えた荷竜と操縦手はすでにアジ・ダハーカへ帰っていた。すなわち、アルブラの町を制圧してアジ・ダハーカ軍を呼ばなければ、アジ・ダハーカには戻れない。
いつものことだ。
ルシアはファフニールの胴体方向を眺めた。ファフニールの背に積もっている土壌が造る小高い丘の向こうに、アルブラの町が見える。
「このままアルブラを攻め落とすぞ」
ルシアの言葉に、アエーシュマ歩兵隊の隊員たちは体から闘気を放って答えた。
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