見えすぎちゃって困る

65/65
前へ
/65ページ
次へ
 善治郎とアキラはまず子どもや女性を屋上に避難させ、最後尾で水位の上昇を確認しながら残る研究員らとともにゆっくり階段を上った。大雨の影響で停電したらしい。エレベーターは動かなかった。自家発電設備も水没したようだ。    狭い階段を総勢100人近くが屋上へと避難するのは思った以上に時間がかかる。天界の消毒液はどんどんせり上がってくるので、気持ちは焦るが、争って階段を駆け上がれば、避難将棋倒しとなって大半が溺れ死ぬ恐れもあった。  高田製薬の本社は40階建てだ。1時間以上も階段を上り続けて、アキラの足はぱんぱんになった。日頃、運動不足の研究員たちはもっと疲労の色が濃い。  「みなさん、あと10階分ですよ。がんばりましょう!」  「はい、大丈夫です。焦らず行きましょう!」  善治郎の励ましにアキラは笑顔で答えたが、既に膝上まで水につかっており、恐怖で喉がひりひりしていた。    「よし、景気づけに歌でも歌いますか!」  もじゃもじゃ頭の研究員が突然、「さらばー、地球よー」と「戦艦ヤマト」を歌い出し、すぐに「それ、場違いでしょ!もうちょっと、楽しい歌にしてくださいよ!」と他の研究員からクレームがついた。  もじゃもじゃ頭は懲りずに「これはどうだ!飛べ、飛べ、飛べ、ガッチャマン、行け、行け、行け・・・」と歌ったが、今度は「飛べないから、こんなことになってるんでしょうが!」と物言いがついた。「じゃあ、どうすればいいんだ!」。  研究員たちが危機時に歌うべき歌について喧々がくがくと議論しているうちに屋上へと続くドアが見えてきた。もじゃもじゃ頭の機転のおかげで恐怖に耐える時間が短くて済んだことにアキラは感謝した。  「善治郎さん、アキラさん、みなさん、もう少しですよ!」  「だ、大丈夫、た、たぶん、大丈夫う」。アキラと善治郎はもう首まで水につかっていたため、フミやウシたちに手を引いてもらい、なんとか屋上に這い上がった。  「異世界だなあ、こりゃあ・・・」  激しい雨に打たれながらアキラたちは立ち竦んだ。屋上から眺める東京都はそれほどに様変わりしていた。まるで海だ。水面の上にあるのは高層ビルの上層部だけだった。遠くには大半が水没したスカイツリーも見えた。水は高田製薬の屋上から2メートル下まで迫っていた。頭上からは相変わらず大粒の雨が降り注いでくる。  我が家はどうなったのだろうか。アキラは隅田川や隅田大橋を探したが、なにもかもが水の中に沈んでしまい、わからなかった。フミと過ごした日々の記憶が蘇り、帰るべき場所を失ったようで寂しくなった。ろくに世話をしなかったのにベランダの鉢植えやリビングの観葉植物が妙に懐かしくなったりもした。  「善治郎さん、ごめんなさい。助けるつもりがこんなことになってしまって・・・」  ウシはすっかりしおれていた。  「いや、いいんだ。これで迷うことなく君のそばに逝けるよ」。善治郎はそう言いかけて飲み込んだ。善治郎以外はみな生きようと必死なのだ。それなのにウシに文句のひとつも言わず耐えくれている。自分だけが諦めるわけにはいかなかった。善次郎は両手でウシの頬を包み、笑顔で「大丈夫だ」と言うのが精一杯だった。  ウシが嗚咽していると、豪雨の中を1羽の鳥が水面すれすれに猛スピードで飛んでくるのが見えた。  「カモメだ。背中に何か巻き付けてるぞ」  屋上にいる全員の注目を集めながら、カモメはひらりと旋回すると、ウシの肩に止まった。すると、どしゃ降りだった雨が突然止み、暗雲も急速にしぼみはじめて陽光がさしてきた。  「ウシ、それは手紙じゃないのかい?」  天候の急変に驚き、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていたウシは善治郎の声でわれに返り、巻物を広げた。  「あら、あら、小野篁(おののたかむら)様からだわ。えっ、本当に。どうしましょう。わあ、信じられません。こんなことってあるのねえ」  ウシの表情はくるくる変わり、喜んだり、悲しんだり、驚いたりしている。何が書いてあるのか気になり、みんなが代わる代わる巻物をのぞき込んだが、ミミズがのたくったような字を読める者はいなかった。  「だいたい誰だよ、小野篁って」  「私に聞かないでよ」  アキラとフミがひそひそ話していると、東大中退のスグルがぬっと顔を近づけてきて「へ、平安、き、貴族です。え、え閻魔、だ、大王の、そ、側近として、ざ、罪人のさ、さ、裁きを、て、手伝っていると、い、言い伝えられています」と解説してくれた。  「へえ、スグルくんはほんとに頭がいいねえ」。異常な出来事にすっかり慣れてしまったアキラとフミはもはや驚かなかったが、幽霊が幽霊に送ってきた手紙の中身ががぜん気になってきた。ほかのみんなも固唾を呑んでウシの説明を待っていた。  「善治郎さん、天界の消毒液槽を修理したそうです。私たち、助かったんですよ!」  「わー!」  ウシの言葉にみな狂喜乱舞した。ある者は抱き合い、ある者は意味もなく走り回り、また別のある者は泣きじゃくっていた。アキラとフミ、善治郎はその光景をほほえましく眺めていたが、ウシはなんだかもじもじしている。  「まだ気になることがあるのかい?」  善治郎に見つめられ、ウシは「いえ、あの」としばらく口ごもっていたが、「実は、私、天界を追放されてしまったのです。溺れて亡くなった方々を助けるにはそうするしかなかったって篁様が。どうしましょう・・・」と打ち明けた。  善治郎は笑って言った。「それでよかったじゃないか。また僕といっしょに暮らそう。これから忙しくなる。なにもかも作り直さなければならない。高田グループも東京も。何年かかるかわからない。君の力が必要だ」  「幽霊ですよ、私。よろしいのですか?」  「もちろんだよ。2人で気長にやろうじゃないか」  「2人で、とは聞き捨てならないですねえ。仲間外れは嫌ですよ!」。「そうですよ。みんなでやりましょうよ!」。善治郎とウシの会話を盗み聞きしていたフミとアキラが猛然と抗議した。  「俺たちも手伝います。いや手伝わせてください」。「僕らもやるよ」。ツルギとルカ、スグル、マモル、カケルそしてソラとヒカリ、ツヨシが善治郎たちを囲んだ。背後には研究員たちも勢ぞろいしていた。負傷した秘書の黒崎らハンターの面々もうなずいていた。  「あ、ありがとう」。善治郎は声を震わせた。  「よかったですね、善治郎さん。たくさんの子どもや孫に囲まれているみたいで私、楽しいわ」。ウシは善治郎の手を強く握りしめた。  「ああ。みんな私の家族、いやそれ以上だ。今度こそみんなが笑って暮らせる世界をつくるよ」。善次郎は頬を拭いながら決意を新たにした。  「まず、何から取りかかりましょうかね」。もじゃもじゃ頭が咳払いすると、ツヨシが「お腹すいたあ。ご飯にしようよ」と言った。みんな急に空腹を感じた。  「よし、カケル、ここは食料調達係としてひとっ走り頼むよ。たしか、正面玄関の近くにコンビニがあったはずだ」。ツルギが真顔で言うと、カケルは慌てた。「ひとっ走りじゃないよ!コンビニは海の底だぜ。ひと泳ぎだろうが。俺、駆け足には自信があるけど、カナヅチなんだよ!」  「あら、あら、では、私がトビウオのように泳げるようにして差し上げましょうか。仏様の力で。みなさん、いかがです?」  フミだけがウシの提案に飛びついた。  「アキラ、トビウオにしてもらいなよ!何でも見えて、トビウオのように泳げる人ってどこを探してもいないよ。素敵じゃない!」  「フミ、また僕をこき使おうとしても無駄だからね。僕はいろいろ見えすぎちゃって大変な目に遭ったんだ。今度はフミが困る番だよ。夫婦はなんでも分かち合わないとね。ツルギくん、ルカちゃん、これが夫婦円満の秘訣だよ。覚えておいてね!」  「はい!覚えておきます!」。ルカが手を挙げて叫んだ。「まったくわかりやすいなあ、ルカねえちゃんは」。ソラとヒカリが呆れると、高田製薬の屋上はまた笑い声に包まれた。カモメはひらりとウシの肩を離れて急上昇したかと思うと、きりもみ飛行で急降下し、きらめく水面すれすれを西へ向かって飛んでいった。みんなの笑い声は、カモメを追いかけるように夕暮れの空に響き渡った。                                                              完
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加