見えすぎちゃって困る

1/65
19人が本棚に入れています
本棚に追加
/65ページ
 「ずっと在宅勤務ならいいのになあ」。向島アキラは汗で蒸れたマスクの下で独りごちた。自宅のマンションから最寄り駅までは徒歩10分弱だが、最近は朝から気温が30度近くまで上昇する。駅に着く頃はすっかり汗ばみ、呼気でマスクが湿って息苦しくなる。通勤はストレスでしかない。    職場は東京・日本橋の金融街。アキラは東証1部上場のヤマト証券の営業マンだ。本社勤務になった際に、職住近接にこだわって隅田川沿いに中古のマンションを購入した。妻のフミのお気に入りの場所だ。春や秋は運動不足解消のため徒歩通勤するが、夏の暑さはどうにもこうにも我慢できない。新型コロナウイルス感染防止のため春先に試験導入した週二日の在宅勤務に慣れてしまうと、会社に行くのがいよいよおっくうになった。    「次は大手町、大手町」。目的地を告げるアナウンスを聞くと、反射的に入り口付近に移動した。かつておしくらまんじゅう状態だった頃に身につけた習慣だったが、運が良ければ座れるほどすいている現状では無用の長物だった。  改札に近づくと、人だかりができている。トラブルらしい。自分よりも背の低い男の肩越しからのぞくと、おばあさんが改札をうまく出られずに立ち往生していた。丸の内で働くサラリーマンやOLは、おばあさんの通過を辛抱強く待っていたが、いらついているのは雰囲気で分かった。どういうわけか、おばあさんが格闘している改札以外の改札は全て故障しており、駅員もいない。  「おや、どうしたんだろうね。切符がね、戻ってきちゃうのよ。困ったねえ」。おばあさんは独り言をぶつぶつ言っているが、動きは緩慢で、余裕すら感じさせる。誰かが「ちっ」と小さく舌打ちしたのを合図に、改札の順番を待つサラリーマンやOLがいらいらを一気に募らせたのが伝わってきた。   「ど、どうかしましたか」。気の小さいアキラは張り詰めた空気に耐えられず、よせばいいのにおばあさんに声を掛けてしまった。  「あら、おにいさん、すみませんねえ。この機械がね、私の切符を受け取ってくれないんですよ。ぺっとはき出してしまうの。困ったねえ」。おばあさんは笑顔で、困った様子は微塵もない。  「僕がやってみましょうか。切符をお借りします」。アキラがおばあさんの手から受け取った切符を通すと、カシャンと音を立てて改札が開いた。    「あら、あら、よかった。ありがとうございます。助かりました」。おばあさんはゆったりと改札を通過すると、アキラの背後からサラリーマンがどっと押し寄せ、パスモで次々に改札を通過した。    「やれやれ」。最後尾に回ることになったアキラが改札を通過すると、さっきのおばあさんが券売機の前で立ちすくんでいた。気になるが、これ以上関わると遅刻だ。アキラが気付かぬふりをして出口に向かうと「ちょっと、おにいさん」と声を掛けられた。  アキラは聞こえないふりをしたが、おばあさんはなおも「さっき助けてくれたおにいさんだよね」と話しかけてくる。気の小さいアキラは仕方なく「はい」と振り返えると、おばあさんは正面に立っていた。    「おにいさん、こちらですよ。ふふふ」  「な、なんでしょうか」    「助けてくれたお礼をさせてくださいな」。おばあさんは穏やかな笑みを浮かべている。アキラは恐縮して「お礼なんてとんでもない。気にしないでください」と言って立ち去ろうとしたが、おばあさんは「ちょっと近づいて顔を見せてくれませんかねえ」と食い下がる。  「こんな感じでいいですか」。アキラが諦めて顔を近づけると、おばあさんは「よく見えますように」と言ってアキラの目をそっとなでた。    「あれ」。目を開けると、おばあさんの姿はなかった。これがお礼だったのだろうか。アキラは狐につままれた心地で地下道を急いだ。  会社に近づくと、玄関に吸い込まれるサラリーマンの群れに妙な黒い帽子をかぶったOLを見つけた。帽子というよりもハロウィンで使いそうなかぶり物だ。いかにも場違いでかなり目立つが、談笑しながら歩いている同僚らしき隣のOLは気にとめていない。周囲も無視していた。  「どこかで見たような」。アキラは記憶を辿ったが、頭頂部に2本の触覚のようなものがついている黒い帽子が何だったかを思い出せない。アキラは帽子のOLから目が離せず、接近して凝視した。  「そうだ、バイキンマンだ」。アキラは人気アニメのキャラクターの名前を思い出してうれしくなり、思わず声に出してしまった。  「なんでしょう」。OLは怪訝な表情でアキラをにらんでいる。  「す、すみません。いや変わった帽子だなと思いまして」。アキラは慌てて釈明した。  「帽子?何ですか帽子って」。OLは困惑気味だ。  「バイキンマンですよね、それ。何かイベントですか」。  真顔で話すアキラを見て、隣のOLは「やばいよ、この人。いこう」とバイキンマンの手を取って逃げ去った。    「何か気に障ること言ったかな」。アキラは話しかけたことをすこし後悔した。
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!