見えすぎちゃって困る

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 「警備員さん、すぐに会社の全てのドアと窓を閉めてください!カニの群れが押し寄せいています!」  既に夜とはいえ、高田製薬にはそれなりの関係者がいる。高田善治郎とモニター室の研究員、当直の医療スタッフ、隔離病棟の感染者、警備員でざっと100人くらいか。アキラとフミはタクシーを手放して社屋に戻り、手分けして異変を知らせて回った。  慌てたのは警備員だった。乱闘騒ぎでへとへとになっているところへ今度はカニの来襲である。カニが入り込みそうな全ての隙間を防ぐのは至難の業だ。窓やドアはもちろん、通気口や下水道、雨樋など最新のビルには外部へと通じるさまざまな穴があるからだ。  モニター室からも悲鳴が上がった。そろそろ帰宅しようかと思っていた研究員は、高田善治郎の指示により、警備員に協力してカニの侵入経路をふさぐ作業を支援することになった。  「大雨に乗じて攻撃を仕掛けてくるとはな。訓練を受けた兵隊みたいだ」  善治郎は秘書の黒崎に指示して、「夜の町」を巡回していた「ハンター」の精鋭を呼び戻させ、医療スタッフとともに隔離病棟の警備に当たらせた。  「名誉会長、警告が的中しましたね。ここに戻ってくる途中、あちこちでカニの大群と遭遇しました。人々は逃げ回り、交通網は大混乱です。夜が明けたら、たいへんな騒ぎになるのではないでしょうか」  黒崎は雨でぬれたスーツをタオルで拭きながら懸念を伝えた。「そうだろうな」。善治郎がテレビをつけると、NHKの速報が目に飛び込んできた。「都内にカニの大群、交通網マヒ」。すぐに画面がJR品川駅に切り替わり、異常事態を伝えるリポーターの甲高い声が室内に響いた。  「こちら品川駅前です。足元をご覧ください。大量のカニが歩き回っています。カニは駅構内や車両にも大量に侵入しております。JR東日本は乗客の安全確保のため山手線を一時、全面停止しました。再開のめどはたっていません。JR品川駅前からお伝えしました」  「こちらは羽田空港です。こちらも大量のカニで滑走路が埋め尽くされています。台風による大雨とカニの大量発生で、あすは全便が運休になる可能性もありそうです」  民放も番組を中断して「カニの異常発生」を報じ始めた。各社は競って東京中を駆け回り、あちこちでカニの大行進を伝えた。東京は都下も含め、どこもかしこもカニだらけのようだった。  各社の報道を受けて、官邸も動いた。関係省庁や専門家を呼んで緊急対策会議を開くことになったが、官邸前にもカニがうようよしており、足の踏み場がない。菅田偉人総理が公邸からハイヤーで乗り付けると、秘書官やスタッフが門前でカニ退治の真っ最中だった。  「構わん。官邸前につけてくれ」  菅田総理はカニをざくざくと踏みつぶしながら、官邸に入ったが、自動ドアが開くと、あっという間にカニが官邸内になだれ込んできた。  「つぶせ、つぶせ!」  総理の怒鳴り声が響くと、スタッフはもちろん、首相を待ちかまえていた記者もいっしょになってカニを踏みつぶした。官邸の玄関ホールはあっという間に生臭い磯の香りで溢れた。ようやく片付いたと思うと、対策会議の出席者が到着してドアからカニが侵入し、また退治が始まる。カニの分泌液や内蔵で床はつるつる滑るようになり、転倒する者が相次いだ。  もっとも派手に転んだのは東京都知事の大沼菊子だった。「ストップ、コロナ」のプリントがあしらわれた作業着は、なんともいえない汚らしい色に染まり、顔中にカニの破片がついている。「くそっ、つぶせ、皆殺しよ!」。叫ぶ都知事の変わり果てた顔が全国放送されると、「すげえ、おもしろい!」「超うける」とSNSやネットで話題になり、深夜だというのに各局の特番は記録的な高視聴率をはじき出した。  菅田総理に大沼都知事、関係省庁や専門家がようやく集まり、報道各社が見守る中で、会議が始まったが、なにせ臭う。カニが張り付いているので窓は開けられないし、マスクも汚物まみれで付けていられない。ソーシャルディスタンスも換気もあったものではなかったが、みな殺気立っているので、気付かない様子だった。  自室でテレビ中継を見ていた善治郎がはっとして立ち上がり、「これはまずい」と口走った。近くに控えていた黒崎も危険を察知したようだ。  善治郎は慌てて官邸に電話を入れた。秘書官につながった。  「高田です。官邸の会議は極めて危険です。あのカニはコロナの新種に感染している可能性があります。このままではみな感染してしまいます!」  秘書官はあまりの剣幕に驚いたらしく、「すぐにメモを入れます」と電話を切った。  善治郎は心配になり、モニター室に向かった。モニター室でもテレビ中継を見ていたが、アキラがいない。隔離病棟で警護しているのだろう。善治郎はアキラをケータイで呼び出した。  「善治郎さん、どうかしましたか」  アキラが慌ててモニター室に走って戻ってきた。  「アキラくん、すまない。脳内映像再現装置をつけて、官邸で開かれている緊急対策会議の番組を見てくれないか」  「わかりました」  アキラはすぐにヘッドギアをつけ、ウシさんにもらった感染者を見分ける「目」で会議の様子を見た。  「ああ・・・遅かったか」  善治郎はその場に膝をついてしまった。官邸の会議室にいるのは総理でも都知事でも専門家でもない。巨大なハサミを振り回しながら泡を吹く青いカニの群れだった。
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