見えすぎちゃって困る

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 高田製薬の隔離病棟で寝ずの番をしていたつもりが、フミはいつのまにか寝てしまっていたらしい。アキラの姿はなかった。高田善治郎に呼び出されてモニター室に行ったきり、戻れなかったようだ。何か一大事があったに違いない。フミは起き上がってあたりを見回した。隔離病棟にカニが侵入した形跡はないが、ツルギたちが気になりドアをノックしてみた。  「みんな、夜が明けたよ。異常はない?」  フミがドア越しに尋ねると、ルカの弱々しい返事が返ってきた。  「無事です。みんな、まだ寝てます。きのうは怖くてなかなか眠れなかったみたい」  「そうだよね。ごめん、ごめん。もうちょっと寝てていいからね」  「はい、そうします。ふぁ」  ルカの大きなあくびが聞こえてきた。かわいそうに。子どもたちが心配できっと起きていたんだろう。フミはルカの母性に感謝した。  台風は予想以上のスピードで北上したらしい。窓からは朝日が燦々と注いでいる。フミはとりあえずモニター室に向かった。あそこなら都内の全容がわかる。アキラや善治郎、研究員のみんなも心配だった。  「おはようございます」  「ああ、おはよう。今日も長い一日になりそうだよ。ご覧なさい」  善治郎が指さしたモニター群には、都内のあちこちの様子が映っていた。どこもかしこもカニだらけだ。大雨でできた水たまりやぬかるみをうじゃうじゃと這い回り、朝日を浴びて甲羅がきらきらと光っていた。安全確保のため鉄道などの交通機関は全て停止していた。企業や店舗もほとんどが臨時休業するようだ。高田製薬も社員に自宅待機を命じていた。官公庁や公的機関も機能不全だろう。首都機能は完全にまひ状態だった。  アキラはヘッドギアをしたままソファで寝息を立てていた。フミが起こそうとすると、善治郎が中指を口に当てて「午前8時から総理が緊急記者会見するそうです。それまでそっとしておいてあげましょう」とささやいた。  記者会見まで2時間ある。長い一日に備えて、まずは腹ごしらえだ。フミは善治郎の許可を得て社員食堂の厨房を借り、みんなの朝食をつくることにした。厨房の冷蔵庫には食材がたっぷり入っていた。今日のランチのために準備した食材だろうが、このままでは無駄になる。ありがたく使わせてもらうことにした。  コーヒーを沸かして、ありったけの食パンを焼いてトーストをつくり、簡単なサラダと切っただけのフルーツ、スクランブルエッグ、ボイルしたソーセージを用意した。ワゴンに乗せて配って歩く時間を考えれば、手の込んだ料理をしている時間はない。  ほとんど一睡もせずにがんばっていた警備員や医療スタッフ、研究員にはことのほか喜ばれた。善治郎もおいしそうに食べてくれた。アキラはまだ眠っていた。隔離病棟のみんなもまだ寝ていると思い、扉の前に食事を置いてメモを入れておいた。  「さあ、そろそろ記者会見の時間ですね」  善治郎のひと言でモニター室の空気が引き締まった。フミも心を鬼にしてアキラを起こした。  「アキラ、起きて。総理の記者会見が始まるよ。アキラの出番でしょ。がんばれ」  もっとも大きなモニターにNHKのライブ中継を映した。ひな壇にコロナ対策のアクリル板がしつらえてあるのが痛々しかった。既に総理はクラブに感染しているのだ。やがて舞台の袖から巨大な青いカニがのっしのっしと現れた。菅田総理だ。  「東京都内にカニが異常発生しました。ただいま関係省庁と専門家で原因を分析しており、念のため、公共交通機関を停止していますので、東京都民の皆様には、不要不急の外出を控えていただくようお願いします。国内では極めて希な現象ですが、海外ではカニの大量発生が多数、報告されております。いずれも一時的な現象で沈静化に向かっておりますし、カニが皆様の安心、安全が脅かすことはないと、専門家の皆様から暫定的な見解もいただいております。いたずらに動揺することなく、明日以降は、足元に気をつけて普段通りの生活を送ってください。私からは以上です」  「な、何を言っているんだ!でたらめだ!」  善治郎や研究員が椅子を蹴って立ち上がった。会場では質疑応答が始まった。  「毎朝新聞の宇須です。総理、原因は調査中とのことですが、関心を持って調べている対象などがあれば教えてください」  「対象ですか。そうですね。社名は明らかにできませんが、ある製薬会社に重大な関心を持って調べています。新型コロナのワクチン開発に関連して何らかの不適切な行為があったのではないかと匿名の通報が寄せられました」  「それは、高田製薬ではありませんか?」  「社名はお答えできません。重大な問題があったと確認できるまではね」。菅田総理はにやりとして答えた。  記者会見をきっかけに、SNSや掲示板は高田製薬への憎しみを煽る書き込みで溢れかえった。「犯人は高田製薬だってよ」「何してくれたんじゃ、われ!」「焼き討ちだな」「やってまえ、やってまえ」「武器を持って東京駅に集合せよ!」―。  「あれは総理ではない。クラブに意思を支配されている。やつらは、公権力を使ってメタルを殲滅するつもりだ」    モニター室は騒然となった。もじゃもじゃ頭は必死に総理官邸に電話しているが、取り合ってもらえないようだった。  「とりあえず、バリケードを築きましょうか」。アキラが顔を引きつらせながら提案した。  「そうですね。できることは何でもやりましょう」。善治郎は籠城する覚悟を決めた。
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